名返しの迷宮

名返しの迷宮 第3話「第2章」

朝の市場は、昨日の歓声とは別の種の熱気で満ちていた。屋根を架けただけの行商台から果物の匂いが立ち上り、革細工屋の男は黒鉄の小札を磨きながら客を呼んでいる。トオルは白紙の札を胸の前で握りしめ、店の並びをゆっくり歩いた。どの看板も彼には薄い膜のように透けて見え、しかし壁角や路地裏の落書きだけがはっきりと読める。その違和感は、昨夜の子どもの鉛筆の光と同じ軋みを胸に残していた。

朝の市場は、昨日の歓声とは別の種の熱気で満ちていた。屋根を架けただけの行商台から果物の匂いが立ち上り、革細工屋の男は黒鉄の小札を磨きながら客を呼んでいる。トオルは白紙の札を胸の前で握りしめ、店の並びをゆっくり歩いた。どの看板も彼には薄い膜のように透けて見え、しかし壁角や路地裏の落書きだけがはっきりと読める。その違和感は、昨夜の子どもの鉛筆の光と同じ軋みを胸に残していた。

「おい、先生」──呼び止めたのは、細身の獣人の少年だった。ミュイ、と名乗るにはまだ彼女自身が名を疑っているような小柄な斥候だ。耳先には修羅場をくぐった痕のような切り傷。彼女の目は年月の割に冷たく、でも訴えを求めている。

「迷宮に戻るなら、俺たちと一緒に来い」彼女は短く言った。「名前返しが必要だってんだ。都市の監督が取りまとめてる」

監督の取りまとめ、という言葉にトオルは身構えた。名返しが制度化され、簡略化されれば、同意の重みは薄れる。だが彼は質問をする癖が身についている。「どんな取りまとめだ?」

「住民が困ってる。台所に来る獣が乱暴して。長官の手配で、見習いが二手に分かって処理することになった。名を返して終わりにする話さ。救済ってやつだ」

ミュイの言葉は粗削りだが、内実は見抜ける。都市と監督、長官の影。トオルの胸の中で、問いがすぐに育った。「救済」の定義は誰がするのか。彼は立ち止まり、ミュイの顔をじっと見た。「君は、名を返すことに同意してるのか?」

ミュイは肩をすくめる。「別に。誰も聞いてくれねえから。だけど、迷宮の方でも困ってるらしい。泣き石を盗む連中が増えたって。私の旧道に人が来る。見なかったってわけにはいかねえ」

そのとき、赤銅色の鎧をまとった女が二人、彼らに近づいてきた。リゼット──没落した騎士家の出で、今は見習い剣士として日々を守る。肩越しに見下ろす視線は、名を失った生まれの痛みを含んでいるが、それが彼女を硬くしている。彼女の隣には、炎と金具の匂いを纏った少年、ノアがいた。手に小さな火口具を持ち、目はどこか忌避と好奇の中間にある。セラは後ろから歩み寄り、神殿の白い端布が風に揺れていた。彼女が差し出したのは、小さな帳面と鉛筆だった。

「私たちの隊に入るか?」リゼットが問う。声は冷たいが、その冷たさは自分の盾に火を灯すための冷静さだ。「長官が出した命令だ。名返しを道具にするな、と釘を刺してきてるが、現場は忙しい。人手が必要だ」

トオルは一瞬だけ白紙の札を見下ろした。女神が渡したものはまだ白いままだ。誰かに書く権利が自分にあるのかどうか分からない。けれども、問いを投げ続ける覚悟はある。彼は三人の顔を順に見ると、静かに頷いた。「いいだろう。だが、俺のやり方でやらせてもらう」

隊は四人編成を基本にしていたが、君臨する立場はまだない。彼らはすぐに準備を整え、迷宮へ続く入り口へと向かった。通りの標識はどれもぎらついていて、矢印が画一的に揃っている。しかし、落書きの方が生々しい。指先で触れると、そこには「橋を渡るな」と走り書きがあった。トオルはその文字を読み取り、胸の奥に小さな違和感が広がる。標準化された言葉がこの街の安定を作っているとすれば、落書きは消された声の余白かもしれない。だが、今はそれを詳細に解く時間ではない。

迷宮の外郭に差し掛かると、汚れた空気が変わる。土の匂い、古い鉄の匂い、そして遠くで誰かが泣くような音が混ざる。見るからに荒れた区画で、住民の一団が盾を作っていた。中には泣き石で暖を取る者、布をまとった者、子どもを抱えた者がいる。彼らは名を持たず、仮名だけで呼ばれてきた顔に当時の怯えが残っていた。

「騒ぎは?」トオルが訊くと、一人の男が前に出た。目元に深い皺。彼は短く答えた。「角獣が台所荒らしに来るんです。夜になると来る。名前を返したら静かになった、と聞いたが──」

「誰が返したんだ?」リゼットが厳しく詰め寄る。

「長官の監督だってさ。見習いがやったって聞いた。だが、その後、門の向こうから悲鳴が上がった」男の声に血が混ざる。

トオルは一拍置いて、周囲を観察した。角獣の足跡。乱れた食器。台所の扉には引っ掻き痕。三つ。彼は心のなかで条件を確かめる。「記憶・行動・他者との関係……三つ以上」──それが起動の前提だ。だが、彼の師としての本能が先へ出る。「まずは話を聞こう。誰が何を見たかを、私に説明してくれ」

住民たちの言葉は噛み合わなかった。ある者は夜に光を見たと言い、ある者は叫び声が戸外からだったと言う。トオルは一つずつ言葉を拾い上げ、感情の皺をなぞるように問い続けた。聞けば聞くほど、事件の輪郭が見えてくる。角獣は単なる猛獣ではない。だれかがそこに放った仮名が、ある生き様を押し付けていた。名を返すことだけで解決するなら、という声が皮肉に聞こえる。

結局、監督はすでに二名ほど名返しを試み、成功したと報告していた。長官の手配はこうだ。名返しによって本来の記憶を一時的に戻し、迷宮の道案内や犯人特定をさせる。だが、その条件は「短時間で成果を挙げる」ことに重点が置かれている。トオルはその速度のために同意の過程が簡略化されるのを恐れた。彼の白紙の札が胸で冷たく震えた。

「見せてもらおう」トオルが言うと、監督の一人が力なく笑った。角獣は迷宮の奥の区画で、今は落ち着いているという。彼らは小道を進み、石で囲まれた台所跡へと到着した。そこにいたのは見るからに大型の獣、ほとんど角を失った狼のような姿だった。毛皮には赤い縫い目が幾つも走り、そこに行政印のような丸い痕が散らばっている。トオルは視線を釘付けにされた。白い角文字が耳の後ろで微かに震え、彼の胸で何かが詰まるような感覚が走った。

リゼットが刃を抜く。ノアは火口具を握り直す。住民たちは後退し、目に恐怖が宿る。トオルは制止の手を挙げた。「この子に話を聞こう」彼の声は平易だが、教室の前で静かに問いを投げる教師の声そのものだった。「君はどうしてここへ来る? 何を守ろうとしているのか?」

獣は鼻を鳴らし、低くうなる。身体の震えは敵意だけではない。トオルは、先に引き出すべき三つの証言を頭の中で反芻した。足跡、食器、扉の引っ掻き。それに加え、「夜に光を見た」という証言、そして住民の一人が「誰かが台所に隠れていた」と言った証言。彼はそれらを筋道立てて、獣に語りかけるように言葉を紡いだ。

「君は食べ物を探していた。だがそこに、誰かの声があった。彼らは君を脅威と呼び、君の名を与えた──『台所荒らし』だ。それを言われると、君はそう振る舞うことになった。君は怒って逃げた。だけど、誰かが名前を返してくれたとき、君は別の光景を覚えた。何かを守ろうとしていた記憶が混ざっている。君は同意するか? 本当の名を、思い出すか?」

白い角文字が、獣の周囲にふわりと浮かんだ。風のように鋭い音が現場を満たす。トオルはいるべき言葉を提示すると同時に、獣の目を見つめた。だが獣の目はすぐに怒りと戸惑いで揺れた。その瞬間、住民の一人が駆け出し、叫んだ。「あいつだ! あいつが台所を荒らした!」

その叫びは周囲の波長を変えた。住民の恐怖が集まり、誰かの手が勝手に火縄をかける。ノアは火を取る。リゼ