名返しの迷宮

名返しの迷宮 第20話「第18章」

雨が止んだ翌朝、迷宮都市の南区画は薄い霧に包まれていた。瓦礫の山が積み上がった路地に、逃げ遅れた人々の列ができている。顔には土と涙が混ざり、衣服は随分と色あせていた。小さな子どもが一人、藁の束を抱いて並んでいる。誰もが疲れ切っていたが、声は──まだ消えてはいなかった。

雨が止んだ翌朝、迷宮都市の南区画は薄い霧に包まれていた。瓦礫の山が積み上がった路地に、逃げ遅れた人々の列ができている。顔には土と涙が混ざり、衣服は随分と色あせていた。小さな子どもが一人、藁の束を抱いて並んでいる。誰もが疲れ切っていたが、声は──まだ消えてはいなかった。

「ここから出すには、あの封が必要なんだ。行政印が残ってる」トオルが示したのは、半ば崩れた石扉の脇に刻まれた赤い縫い目の痕だった。薄く、しかし確かな刺繍のように壁に走る赤が、迷宮と街を結ぶ管理の名残を示している。長官の手が及ぶ印。あの縫い目は、容易に外れるものではない。

「どれだけの人がここに押し込まれていたんだ」リゼットが唇を噛んで言う。盾のような手つきで背中の剣柄を確かめる。ノアは黙って懐から小さなバーナーを取り出し、指先で火を弄んでいる。ミュイは匂いを嗅ぎ分け、逃げ道に残った古い風の跡を辿っていた。

「行政印を止めたまま解除できる方法があるかもしれない」セラがひと言。目はいつものように静かだったが、震えているのはその声の端だけではない。神殿での仕事を抜け出してきた彼女は、すでに羊皮紙を一枚広げ、状況を記録しようとしていた。「だが、そのためには……ここにいる一人ひとりが、自分の名について意思表示をする必要がある。『仮名』で縛られた者たちを単に元の呼び名に戻すのではなく、その人自身が名を受け入れることが条件になる」

「必要なんだよな、証言が」トオルは頷いた。〈名返し〉は便利な魔法ではない。対象をよく観察し、本人の記憶・行動・他者との関係を三つ以上、具体的に言葉にして認めたうえで、対象が同意すること。声に出して返す――それが成立して初めて、本名は戻る。拒否があれば無効だ。だが今の状況は、無数の人の声が混ざり合い、同意を得るための静かな時間が何よりも貴重だった。

「この子たちが自分の名を聞く準備ができているとは限らない」ミュイが言った。小柄な獣人は、壁際に立つ子どもたちの目を慎重に見つめている。だがその目は、わずかに反抗する光を持ってもいた。「でも、待っていられない場合もある。外へ逃がすのに時間がかかるなら……」彼女の言葉を遮るように、向こうの列の中で年老いた男が声を上げた。

「お願いだ、若いの。扉を開けてくれ。ここにいる者はみんな、仮名で呼ばれてきた。俺の本名なんてもう──」男の言葉は途切れた。顔の皮膚が落ちたようにくしゃくしゃだが、目だけはしっかりこちらを見ている。誰かの手が彼の肩に触れた。人々の願いがわだかまりとなって、周囲の空気を重くしていた。

トオルはその列に近づき、息を整えて観察を始める。足の運び方、誰かと視線を交わす瞬間の佇まい、手に持つわずかな仕草。彼は教師だった。人の小さな癖や思考の筋道を読むのは仕事だった。だが今は、名を返す側でもある。返すことは選択を差し出すことであり、同意なく返すことは命令にほかならない。彼はいつもの癖で決めつけないよう、自分に言い聞かせた。

「この人は子どもたちを抱えている。名前を取り戻せば、彼が背負ってきた職業や過去の立場を再び思い出し、――その記憶に耐えきれない者がいるかもしれない」トオルは、並んだ人々の中で年長の女性に目を留めた。彼女は子どもの袖を抱き、しわだらけの手が小さな背を守るようにしていた。短い観察ののち、トオルは三つの要素を仲間に口にした。

「彼女は子どもに食べ物を分けるとき、必ず前に自分の分を相手に渡す。彼女は夜になると古い歌を鼻歌で歌う。第三に、彼女は自治組織の名前を書いた紙を胸にしまっている」セラが黙ってそれを書き留める。リゼットが額に皺を寄せ、ノアが固い目でじっと見る。ミュイは鼻を鳴らして、女の者の匂いがかつての道守のそれに近いと告げた。

「なら、名を返すべきだろう」リゼットの言葉に、列の誰かが小さく頷いた。みなが固唾を飲む。だが、そこでトオルの理性がほんの一瞬だけ曇った。疲労と責任感が混ざり合い、頭の中に浮かんだのは、古い判断の癖だった。――答えを教えれば、間違いは減る。教師としての反射は、目の前の困難を速やかに解くことを欲した。

トオルは声を出した。白い角文字が彼の喉からふわりと立ち上がる。だが、その声に込めたのは問いではなく確信めいた呼び名だった。

「君の名は──『鉱夫の母、エレア』だ」

白い角文字が女の者の額の周りに淡く踊り、しかしそれは誰も承認しなかった。女は目を見開き、口を結んだ。彼女の胸にあった紙片が、ぱたりと震え、赤い縫い目のように壁に走る模様の一部分が淡く光った。空気は静止した。だが、その瞬間にトオルの中の何かが音を立てて切れた。冷たい刃で古い写真の端を引き裂かれるように、彼の内側で一枚の顔が薄れていった。

それは、確かな実感だった。トオルは一瞬で理解した。誤った名を、確信として返してしまった。

「違う!」セラが叫んだ。彼女が差し出した手が震え、羊皮紙にインクが波を打った。「トオル、あなたは問いかけるべきだった。彼女の同意を待つべきだった!」

女の者は――同意を示さなかった。目に浮かんだは抵抗でもない、ただ深い疲労と混乱がそこにあった。角文字は期待通りに定着せず、白い光は粉々に崩れ落ちた。代わりに、トオルの胸のどこかで、うずく小さな暗闇が広がる。記憶の一片が消えかかっているのを彼は感じた。消失はゆっくりと、だが確実に進行していった。前世の教室の片隅、ある生徒の笑顔が、手の触れる前に霧散するように薄れていく。

「トオル!」リゼットが駆け寄る。盾の腕が彼の肩を強く掴んだ。「何をした。今すぐ止めろ。記憶を失うって言ってたじゃないか!」

「間違った……」トオルの声が震える。喉が乾き、頭の中で何かがこぼれ落ちる音がした。彼は懐から白紙の名札を取り出し、無意識にそれを胸に押し当てた。――代償が来る、来るといつも思っていたが、来るときはいつも突発的で、避けがたい。

ミュイが低く唸る。獣人の感覚は人よりも鋭く、記憶の剥落の匂いを嗅ぎ取った。「それで何かが消えたのか?」

「消えた」トオルは俯いた。目の奥にあるはずの一枚の写真が、指先で触れた途端に滑り落ちるように消えてしまったとしか言いようがなかった。「名前は……学生の顔が」

誰の顔か、トオルは言えなかった。言えない嘘のように、言葉が口から滑り落ちて出なかった。それは最も忌まわしい種類の喪失だった──具体的な形を持った時間が、自分から離れていく感覚。彼は教師であり、顔や名前をつなぐことに生を賭けていた。あの顔は、彼が最後まで助けられなかった生徒の一人だった。だとすると、失われるのは単なる記憶ではない。許されぬ過去が、音を立てて薄れていく。

「君はそれを封じるつもりだったんじゃないのか?」ノアが荒い声で言う。火術師の手が燃えを抑えるように震え、火の色が異様に高まった。彼は、トオルが能力を使うたびに何かが奪われるのを知っている。仲間が増えれば増えるほど、代償の影は大きくなる。

トオルは首を振った。「封じられない。封じるのは自分の意思だけだ。だけど、今は――」言葉が続かなかった。どうしても、あのときの習性が働いた。解決を早めるという名前を与える習慣が。教師の癖は、未だに筋肉