名返しの迷宮 第13話「第12章」
迷宮の胎動は、声なき声の合唱だった。赤い縫い目は壁を伝い、瓦礫を跨ぎ、床板の裂け目から這い出しては天井を走る。糸の一本が風に揺れ、細い金属音のように鳴った。その音が、五人の息を少しだけ速める。
迷宮の胎動は、声なき声の合唱だった。赤い縫い目は壁を伝い、瓦礫を跨ぎ、床板の裂け目から這い出しては天井を走る。糸の一本が風に揺れ、細い金属音のように鳴った。その音が、五人の息を少しだけ速める。
最深部の空間は広かった。崩れた石柱が円環を描き、中心には小さな凹みがあった。そこに横たわるのは、子供のような体躯をした存在だ。皮膚は灰色の薄紙のようで、胸と腹には赤い糸が幾重にも絡みついている。糸は皮膚を貫いてはおらず、外側から縫い付けられているかのように、表面を叩いては跳ね返る。糸の節目に、古い印が金属光を返していた。誰かの手で押し付けられた行政の刻印だと、セラの目が吸い寄せられる。
子供の顔は薄く、眠っているのか泣いているのか判別できなかった。目は閉じられているが、瞼の裏に白い角文字が揺れていた。角文字はいつものと同じ形をしている。だがそこに浮かぶ言葉は、トオルには読めない。読めない標識と読める落書き――序盤に抱いた違和感が、胸の奥でひとつの帯のように締まる。
「幼い意志……だな」ヴァルドの声は低い。彼は長年、赤い糸の張り巡らされた仕組みを管理してきた者だ。そこに寄って立つ彼の肩は、役所を背負ったような重さを放っている。だが、その目は迷いに曇っていた。長官の鎧が薄く軋むように、部屋の空気が動いた。
トオルは一歩進んだ。胸の白紙の名札が冷たく指先に触れる。ここまで来て、彼は一度も自分の名を口にしていない。声に出すことで何かを定めることの重さを、まだ完全に受け止めてはいなかった。誤った名を返せば記憶を一つ失う。ここで一人で針を引けば、世界がほろびるかもしれない。彼の能力は問いを返す道具であり、決定を押し付ける錘ではない。それを仲間は何度も、温かく、厳しく教えてくれた。
「こいつは――やめておけ、私は言う」リゼットが先に言った。彼女の剣が鞘で軽く振れて音を出す。彼女は幼い意志を盾にするつもりはなく、敵として仕留めるつもりもない。だが、仲間に手を出させはしない。鋼の声に、部屋の緊張が少しだけ緩む。
子供は微かに手を動かした。浅い呼吸が胸を上下させる。そのとき、ふいに薄目が開いた。眼差しは深く、怯えていた。幼いが、その内部には普通の子供よりも多くの声が詰め込まれている。誰かの囁き、誰かの笑い、誰かの泣き叫びの波がその瞳の奥で反芻していた。
「だれにも――」小さな声が出る。音は砂の上を滑るように弱く、しかし確かにここにある。「だれにも呼ばれたくない。呼ばれると、痛みが返ってくる。だからほかの名前を持たずにいる。それが――安全なの」
トオルは一瞬だけ、前世の教室の記憶を覗き込むような錯覚に襲われた。小さな手がノートを握りしめる、胸に押し付ける、名を呼ばれたときの顔。記憶は揺らぎ、しかし全てを奪われはしない。彼は深く息を吸い、言葉を選んだ。
「呼ばれることが必ずしも痛みとは限らない。呼ばれた名前が、君を縛るためでなく、君を認めるためにあることもある」トオルの声は穏やかだ。教師として何万回も問いを投げた声だが、今は決して答えを押し付けない。問いを置く。彼の目は幼い意志の瞳と交わる。そこには恐れが渦を巻いているが、同時に好奇もある。
幼い意志はゆっくり首を振った。「誰かが――決めた名前はいや。誰かが決めたら、また奪われる。奪うための名が、この世界を縫ってる。子供たちの声を縫ってる」
リゼットが前に出て、手の甲を胸の前で組んだ。その手つきは、攻撃か保護かの中間にある。彼女の声は硬かった。だが、その硬さの奥に軟らかな光があった。彼女は、己の家名を失った者でありながら、名が人を守る道具になり得ると理解していた。
「私たちは奪うために来たわけじゃない。名を返すと言っても、それは取り戻して誰かに押し付ける行為ではない。ここにいる五人が、自分の名を宣言して、私たち全員がその宣言を証言する。その上で、君が自分で選ぶ。その選択を私は守る。私が私の名を名乗るなら、他人が私の名を奪えない。そういう約束を作るんだ」
ノアの手が小さく震えた。火術師の顔に、薄い影が落ちる。彼はかつて多くを燃やしてきた。燃え残ったものの記憶が、彼の中で鋭いトゲとなって刺さっている。彼が自分の火に名を与えることを恐れる理由は、火に名を冠すことで自在にそれを使う道具になってしまうからだ。しかし、ここでの提案は違った。名は束縛ではなく、責任の立て札になる――誰が持つかではなく、誰がその名を証言するかで変わる。
セラは巻物を抱えて前へ出た。彼女の指は震えず、むしろ確固たる気持ちを秘めていた。神殿で学んだのは祈りを奏でる術だが、彼女は既にそれを超えて「記録」としての祈りを見つけていた。巻物の端を開き、薄い紙に筆で何かを走らせる。そこには既にいくつかの証言が書き込まれている。リゼットが見せたように、名を巡る新しい約束を書き取るための白紙だ。
「証言は、私の仕事だ」セラが言った。「誰かに名を与えるための祈りではない。誰かが自分の名を選んだ、その瞬間に立ち会ったという記録を残す。それが後で誰かが奪おうとしたときの証拠になる。私がこの一枚に、五人の声を押しとどめる」
ミュイは静かに微笑んだ。小柄な獣人の爪が地面をかする音がする。彼女の鼻先はわずかな匂いの差を求めて揺れていた。旧道の記録を守っていた一族は名を持たぬことを生存戦術に変えて生き延びてきたが、ミュイは今、道を開くために一族の一部を差し出す決意をしていた。
「私の一族は隠れることで生きた」とミュイは言う。「だが隠れていても、誰かが迷子になるなら道を示さねばならぬ。私は、見たものを匂いで証す。君の匂い、ここに刻まれた声の匂い。私が言うのはそれだけだ」
言葉が交わされるたびに、角文字が微かに空気を震わせた。白い文字が浮き上がり、消える。だが今回は、文字が誰かの額の上に浮くのではない。空中に、黙示のように現れる。まるで幾つかの問いが宙を横切ったかのように。
トオルは手を胸に当てた。彼は名を言う準備をしている。だが彼の声はいつもの教師の調子と少し違った。問いを与える側から、問いを共有する側へと姿勢を変えているからだ。彼は自分が誰かを決めるのではなく、他者が自分をどのように見るかを示すことに意味を置いた。
「俺は――」トオルは息を吐いた。「トオル・マカベだ。ここで、今この瞬間にいる人間の名だ。前の生での名も、女神が与えた仮名も、もしそれが存在するならば、それらを持っているかもしれない。だが今の俺が受け取る名はこれだ。俺はその名で、君たちの証言を受ける」
一呼吸置いて、リゼットが短く頷く。ノアが小さく肯く。セラの筆先が紙を擦る音だけが聞こえる。ミュイは鼻を鳴らして、トオルの匂いを確かめた。五人のうち四人が、今のトオルの名を証言する。
「トオル・マカベ、ここにいる」リゼットの声が、静かな場に太く響く。盾の声だ。彼女は自分が名を守ると言った通り、証言の先頭に立つ。ノアの声、セラの声、ミュイの鼻の鳴き声が続く。五つの声が重なった瞬間、白い角文字が床の上に大きな輪を描いた。文字は静かに光り、子供の瞼の裏の文字と呼応して揺れる。
幼い意志が目をみはる。目の中の波が小さく震える。彼は名を拒んだ理