名返しの迷宮 第11話「第10章」
石室の入り口には、古く擦り切れた布が何枚も重なったように見える赤い縫い目が、薄暗い石の壁を横切っていた。縫い目は幾重にも絡み合い、そこから微かに子どもの声が滲んでいる。声は風のように掠れて、何度も返事を待っているように聞こえた。
石室の入り口には、古く擦り切れた布が何枚も重なったように見える赤い縫い目が、薄暗い石の壁を横切っていた。縫い目は幾重にも絡み合い、そこから微かに子どもの声が滲んでいる。声は風のように掠れて、何度も返事を待っているように聞こえた。
「ここだ」
ミュイが小さな手で扉の鉄環を引くと、金属の擦れる音だけがこもって響いた。中に入ると空気が冷え、泣き石が湧く黒い水のように光っていた。古老と呼ばれる者は、その水の脇の石の上に腰を下ろしていた。白髪は肩に落ち、顔には歳月の皺が刻まれている。しかしなにより目が、長い間誰にも呼ばれなかった人間の目であることを示していた。
古老は顔を上げずに言った。「来たな。守り手どもか。名を取り戻しに来たのか?」
「取り戻すのは、あなたの選択であって、僕たちの命令ではない」トオルが答えた。その声は小さく、しかし室内の隅々まで届く。白紙の名札を胸に抱えてからの日々、彼の口は以前よりも言葉を慎むようになっていた。名を与えることは祝福であると同時に武器にもなりうる。だからこそ与えられた者の声を奪ってはいけない──それは彼が教師だったときに、何度も思い知った倫理だった。
「名を返された人間の多くは、名によって掻き立てられる」と古老は低く吐いた。「家族の名、恨みの名、戦の名。ある者は復讐の音を取り戻して、また血を流した。わしはそれを見た。名が帰ったことで、残った者は更に傷ついた。だから、――わしはもう、名を取り戻したくない」
その言葉は室内の空気を凍らせた。トオルの胸の奥で、白い角文字が――ほんの刹那、かすかに光った気がした。しかし彼は声を引き下げ、名返しの手順を思い出す。観察し、本人の記憶・行動・他者との関係を三つ以上言葉にして認めること。問いかける形で提示し、対象が同意すること。拒否があれば効果は生じない。誤った名を返せば彼自身が記憶を一つ失う代償を払う。
「あなたの同意がない限り、こちらから名を押し付けることはできません」トオルは静かに言った。「それが、〈名返し〉の掟です」
ミュイが古老の近くに立ち、石に刻まれた小さな凹凸を指先で辿った。泣き石はほんの少しだけ震え、古老の手の先で小さな水音を立てる。古老は目を閉じ、かすれた声で続けた。「わしはもう――呪われた声を持ちたくはない。あの時、わしが名を取り戻した瞬間、弟が叫んで死んだ。弟はわしの名に応えてしまった。名が戻ったら、彼らはまた集合し、また名に従って動く。わしが守るべきものを呼び寄せる。――それが恐ろしいのだ」
リゼットの手が、自然と鞘に近づいた。盾の柄が冷たく、彼女の指先に緊張が走る。ノアは火術の手袋をぎゅっと握り、小さな滲むような光が指の間を走った。セラは巻物を少し高く抱え直し、祈りを唱えるように唇を動かしたが、声は出さない。五人の視線が、古老の顔から床の泣き石へと往復した。
「どうすればいい」ミュイがぽつりと言った。「名が帰らないことで救われる者もいる。帰ることで呪いを呼ぶ者もいる。次にどうすればこの迷宮の住人たちを守れるのか」
トオルは答えを探した。彼の能力は、人の正体を暴いて力を奪うものではない。名前を返すことで、その者の記憶と道筋を一時的に取り戻させ、なぜ敵対するのかを語らせる。ただしそれは同意に基づく会話であり、返された名がすぐに善に転じる保証はない。名は道具であり、刃にも薬にもなる。彼自身が名を発してしまえば、古老が望まぬ結果を呼び寄せるかもしれない。しかも失敗すれば、彼はまた一つ記憶を失う。
彼は思い出した。前世の教室で、答案の余白を埋めようとして生徒に答えを押し付けたこと。あのとき自分が良いと思った正解が、彼らを変えてしまったこと。力を使うとき、教師は必ず相手の声を聞かなければならない。名返しも同じだ。
「名を返さない選択も、ひとつの有効な意思だ」とトオルは言った。「返さないことを尊重する記録を残すことはできますか。セラ、あなたならそれを──」
セラは少しだけ顔を上げ、固い表情で頷いた。「記録を、公共の媒体へ写し取ることですか。神殿の記録は長官の掌中にある。だが……巻物にこれを写し取れば、証人の署名と共にここに残せます。誰かが後で勝手に名を押し付けることを、少なくともこの場からは難しくできるかもしれない」
古老は笑ったように見えた。「署名か。誰が署名する。お前らか? 都市の役人か? 役人が署名するなら、それはまた新たな押付けだろう」
「だから、私たちが証人になります」リゼットが静かに言った。「私たち五人の名をここに刻めば、誰かが勝手にこの人の名を決めることはできない。強制的に名を与えようとする行政の命令でさえ、ここに刻まれた記録と対立するでしょう。少なくともここでは、本人の意思を優先する証人がいる。そういう記録を残すことが、本当に守るということに近いなら、私はその盾になります」
ノアが唇を噛んだ。「でも、それで本当に止まるのか? 都市は石に印を打ち、仮名を貼り続ける。記録を作っても、それを無視してしまえば、また名前は押し付けられるかもしれない」
「それなら、まずはここから始めるしかない」セラは強く首を振った。「記録は小さくても、公開されれば後から来る者を助ける。私が公開できる方法を知っている。神殿の索引を変え、巻物を公的な場所へ置く。誰かが見れば、それは公式な記録に準じるはずだ。名を奪う側にも、一定の手続きが必要だと示せる」
古老は静かにそれを聞いていた。しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと顔を上げた。「その方法なら、わしは――拒むことを選ぶ。だがその意思が消されないように、記録はしてくれ」
トオルの胸にまた、冷たい感触が走った。彼は間違いなく、ここで名返しを使えば古老の記憶は一瞬にして鮮やかに戻り、そこに含まれた痛みや怒りが噴き出すであろうことを知っていた。古老はその痛みを抱えて生きることを選んでいる。トオルがそれを強制的に明るみに出す権利はない。能力の代償のことが、眼の前で生きた教訓となって迫ってきた。
「分かりました」トオルは静かに言った。「あなたの拒否を、私たちは記録します。名を返さないという選択も、ここに置かれるべきものです。あなたの意思を尊重します。それが、私の手の仕事です」
セラは腰の巻物を床に置き、古老の言葉を一つずつ書き留め始めた。彼女の筆は祈りの文句をなぞる速さとは違い、確かな律動で動く。言葉はただ事実を列挙するのではなく、古老の拒絶の意味を伝えるために細く、丁寧に紡がれた。誰かが読み直すときに、そこに含まれた痛みも、恐れも、誇りも伝わるようにと、彼女は思った。
だがその間にも外の世界は動いていた。ヴァルドの影が石室の縁の向こう側に伸びている気配が、油断なく室内に伝わってきた。ミュイが扉の外へ首を出す。細い道の向こうに、幾つもの武具の音と兵士の足音が聞こえた。ヴァルドは行政印を取り締まる男だ。彼が「秩序」を守るために、封鎖を強める判断を下したことは予想の範囲内だった。
「長官が強化を命じた」ミュイが低く言った。「門を閉じ、迷宮から出られぬようにするつもりらしい。外に待機する軍の数が増えたと報せが来ている」
「ならば、ここで記録を作っておく