傷貨の聖女 第19話「第17章」
灰色の雲が低く垂れ込めた昼下がり、道は湿り坂の匂いを立ちのぼらせていた。リゼットは毛皮の襟を立て、先を歩くヴァルドの背に目を凝らす。彼は聖務院の黒い装束を脱ぎ捨てていた。古い縫い目が端に残る上着は、作業の汚れに晒されて堅くなっている。村の小さな門をくぐると、家々の軒先に掛けられた短い布が風にぱたつき、どこかしら寂しい祭りの残り香のように見えた。
灰色の雲が低く垂れ込めた昼下がり、道は湿り坂の匂いを立ちのぼらせていた。リゼットは毛皮の襟を立て、先を歩くヴァルドの背に目を凝らす。彼は聖務院の黒い装束を脱ぎ捨てていた。古い縫い目が端に残る上着は、作業の汚れに晒されて堅くなっている。村の小さな門をくぐると、家々の軒先に掛けられた短い布が風にぱたつき、どこかしら寂しい祭りの残り香のように見えた。
「ここが――」ガルドが小声で呟く。表通りの正面には、簡素な石の壁があり、無数の小さな板が打ち付けられていた。名前と年齢が、黒い文字でぎっしりと並ぶ。板の端には、奇妙な印が刻まれている。五つの尖りのうち、ひとつだけが欠けている。リゼットは思わずその欠けに指を触れた。指先に冷たい感触が走り、どこか遠い礼拝堂の壁に刻まれていたあの印と呼応するように彼女の胸が締めつけられた。
ヴァルドは、そっと右の手を胸に当てた。習慣的な仕草だ。鉱夫たちのそれとは微かに違う。祈りでも、偽りでもなく、自分の内側に残る何かを確かめるための合図――それがリゼットには見えた。彼の掌の下で、古い瘢痕が白く波打っている。そこに触れられることを、彼は恐れているようにも見えた。
「母さんの名前がある」ヴァルドは声を震わせずに言った。「アンナ・ヴァルド。三十四。――疫病が来た年に。――兄弟も。弟のトマスは二十に満たなかった」
言葉は淡々としていたが、その裏にある景色は濃かった。リゼットはうっすらと頭に浮かぶ過去の断片を感じる。白い寝台。石造りの窓辺から差し込む斜光。誰かが書類に数字を記す音。リゼットはその断片が、自分の能力で追体験することになる前触れだと気づいた。
「ここで、何があったの?」ノエラが問いかける。彼女の声は冷静で、しかしその眼差しは医師としての鋭さをたたえていた。
ヴァルドは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。「疫病が来た。最初はただの熱だと言った。聖務院が医薬を運んできた。治療は素早く、だが限られていた。彼らは――端的に言えば、治せる者から治した。数字を上げるために」
その言葉は重い。リゼットは無言で頷いた。彼女の前世の職務が、まるで今目の前で現実になったかのように響く。数字の裏側にある名前たち――彼女はその存在を見えないままにしてはおけなかった。
「どうして?」ガルドが荒い声で言う。「どうしてそんなことを? そいつらはただの役人じゃないか。治すって言ったんだろう、聖務院は」
「役人だろうと、誰だろうと選択はあった」ヴァルドの声は静かだった。「だが、当時の私には他の選択を取る術がないように見えた。『一人を捨てて百人を救う』――そんな言葉で、俺たちは自分を納得させた。帳簿が正しければ、もっと多くの命が残る、と」
ヴァルドは視線を落とした。彼の右手は無意識に胸に触れ、ゆっくりと拳へと変わる。リゼットはその手つきに、過去に彼が何度も自分に言い聞かせた痛みを感じた。納得のための冷たい理屈が、彼自身を蝕んでいったのだと。
「具体的に、何をした?」セインが静かに尋ねた。彼は書記官としての癖で、名前や日付を確かめるような眼差しを向ける。誰かの告白は、記録となって初めて力を持つ。
ヴァルドは一呼吸置いてから答えた。「病棟に来る患者を三つに分けた。軽症、中等症、重症。軽症は薬と休息でいい。中等症には集中治療を施す。重症――肺に浸潤が及んだ者、衰弱した者、既に助からぬ可能性の高い者は、聖務院の統計から外す処置を取られた。――外す、というのは表現が柔らかいが、要するに介入を最小限にし、記録を別にして、王都に上げる『救った数』に含めないようにしたんだ。担当の官吏はそのための書式を持っていて、数字の切り替えが可能だった」
ヴァルドの言葉に、風が止まったように思えた。近くの屋根で猫が鳴いた。人々は無言で耳を傾ける。リゼットは拳を軽く握った。能力が自分にもたらす視覚――金貨に走る細い黒線のヴィジョンが、此処でもまた別の形で表れていることを確信する。黒い線は貨幣の表面だけではない。数を整えるために切り離された誰かの痛みの経路なのだ。
「それを君は――実行していたのか?」リゼットは問いを選んだ。問いの重みは、どちら側に立つかを決める。
ヴァルドは視線を村の方へ向けた。遠く、子供たちが石ころを蹴って遊んでいる。彼の瞳の端に、かつての自分が見た熱で痙攣する少年の姿が浮かんでいるようだった。やがて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺はやった。やらざるを得なかった、と自分に言い聞かせた。だが――誰だって、そうする。俺も含めて。聖務院がその方法を持ち込んだとき、俺たちは数字で測ることに慣れてしまった。数字は安心をくれる。だがその裏側に、置き去りにされた顔があった。――俺の母も、その顔の中にいた」
リゼットはヴァルドの目を見つめた。そこには、怒りでもなく、ただ深い悲しみだけがあった。彼が持っているのは正当化でもなく懺悔でもなく、疲弊した信念の残り香だ。彼がこれまで取ってきた行為は、単なる冷徹な計算ではなかった。自分の信じた道を守るために、知らず識らずに人の痛みを帳簿の外に追いやってしまったのだ。
「俺は――当時、正しい決断をしたと思っていた」ヴァルドは呟いた。「だが、年が経つにつれて――夜に目を覚ますと、あのときの顔が浮かぶ。母が、弟が、助けを求める声が。俺はそれを封じてきた。刑罰よりも酷いのは、自分で自分を許せないことだ。だから――俺は、変わる必要があると考えた。だが、どうすればいいのか分からなかった。それで、ここへ戻るのが怖かった」
その告白に、誰もすぐに言葉をかけることはできなかった。代わりに、ミナが小さな木箱を弄りながら口を開いた。「私たちは、帳簿を公にするために来た。あの初代の手記のように、真実を晒す。だが真実を晒すだけで終わらせない。補償と選択肢を提示する。聖務院が数字だけを追ってきたなら、その数字の意味を取り戻す作業だ」
ヴァルドは低く笑った。「お前たちは、理想を持っている。だが、現実は理想を食べてしまうことがある。――そして、俺はまだ自分の手を汚している」
そのとき、リゼットは決心した。彼女には、ヴァルドの胸に残る痛みを――完全には取り去れないまでも、語ることを容易にするだけの軽さを与えられるかもしれないという可能性が見えた。能力《傷貨》の条件は常に明確だ。本人の同意がいること、触れて治癒を行うこと、そして必ず一部の痛みを追体験すること。加えて、リゼットの一日の許容量は眠りの量で決まる。ここで軽く一負荷を使えば、彼の言葉を掬い取る助けになり得る。だがその代償として、彼女は彼の記憶のうち、痛みの一端を自分自身で味わう。無理をすれば記憶が欠け、人生の時間が失われる可能性がある。彼女はそれを説明し、承諾を得なければならない。
「ヴァルド、私に少しだけ貸してくれない?」リゼットは静かに言った。「あなたが話を続けられるように、痛みを和らげる。だが約束してほしい。あなたの話は全部公に出す。隠し事はしない。あなた自身が、何をしたかを、ここで記録に残すんだ」
ヴァルドは一瞬、逡巡した。掌は胸を滑り、また拳になった。やがて彼はゆっくりと頷いた。「……いい。だが見せ物にするな。正しさ