傷貨の聖女 第10話「第9章」
冬の朝が町を薄く覆っていた。木造の教区礼拝堂は長い年月で煤け、屋根の藍色の鱗はところどころ剥がれている。セインは足音を忍ばせながら古い建物の裏手に回り、使われなくなった司祭室の小さな窓を押し上げて中に入った。日差しは弱く、埃に照らされる空気が微かに踊る。彼の胸は早鐘のように打っていた。ここにあると噂された「古い礼拝堂の壁画」と、封印された聖女の記録が――もし本当に残っていれば、王都の帳簿改竄の証拠になる。それが真実なら、リゼットと町の訴えは単なる妄想ではない。だが、その証拠を持ち出せば、彼は王家の末裔としての身分どころか、命まで危うくするかもしれない。セインの指は窓枠の冷たさを感じながら、記憶
冬の朝が町を薄く覆っていた。木造の教区礼拝堂は長い年月で煤け、屋根の藍色の鱗はところどころ剥がれている。セインは足音を忍ばせながら古い建物の裏手に回り、使われなくなった司祭室の小さな窓を押し上げて中に入った。日差しは弱く、埃に照らされる空気が微かに踊る。彼の胸は早鐘のように打っていた。ここにあると噂された「古い礼拝堂の壁画」と、封印された聖女の記録が――もし本当に残っていれば、王都の帳簿改竄の証拠になる。それが真実なら、リゼットと町の訴えは単なる妄想ではない。だが、その証拠を持ち出せば、彼は王家の末裔としての身分どころか、命まで危うくするかもしれない。セインの指は窓枠の冷たさを感じながら、記憶の中の父親の言葉を聞いた。帳は守るものだ。だが何を守るのかと、父は言わなかった。
司祭室の扉は重く、鍵は外され、鉄の輪は振れたままだった。セインは雑巾を見つけると、手早く顔の汗を拭い、薄暗い廊下を進んだ。礼拝堂の扉を押すと、古い木の匂いが鼻腔を満たす。祭壇から長い時を経た灰が落ち、床には小さな石片が転がっていた。壁面を飾っていた壁画は一部が剥がれ落ち、残る部分も煤で覆われている。ただ、祭壇の後ろ、暗がりの縁に、かすかな凹凸が渦のように浮かんでいた。セインは震える手で膝まずき、埃を掬うようにして引き裂かれた巾着から少しの油を取り出した。布に浸し、壁面の煤をそっと拭い始める。
最初はただの汚れに思えた。だが布がすすぎを繰り返すたび、下地に隠れていた色が少しずつ浮かび上がる。薄い金の縁取り、赤みのある頬、そして繊細に描かれた手。セインの息が止まる。壁画に描かれていたのは聖女――いや、初代と伝えられる女性で、目を閉じ胸に手を当てている姿だった。だが、胸元の紋章には本来あるはずの五つ目の突起が無い。四つは整然と並び、間にぽっかりと空いた痕跡が黒く沈んでいる。煤を拭うたびに、空白の周辺がくっきりと浮かんだ。そこにあるのは破損ではなく、削り取られた跡だった。
「欠けている……」
セインの声は壁に吸い込まれ、反射せずに消えた。手の震えが止まらない。あの紋章は、王家と聖務院の印章そのものだったはずだ。彼は思い出す。町に来る慈善商人の印章、監査団の旗、王都から送られてくる公文の角飾り。どれもその五つ目を欠いた痕跡を持っていた。誰かが意図的にそれを消したのか。それとも昔からそう描かれていたのか。セインは布でさらに煤を擦った。すると隠れていた別のものが現れた。小さな文字列が、壁画の縁に沿って走っている。文字は古い筆致で、かすれているが判読できるものもある。
「エルナ・アリア――」
その名前を見た瞬間、セインの胸が氷のように冷えた。初代聖女の名だ。生者たちは彼女を伝説にして語り継ぎ、同時にその声を消した。壁面の文字は続く。細い一行に、小さな注記があった。『患者の意志を記す。救済は数ではなく選択による』。セインは息を飲んだ。そこに書かれているのは、王都の記録が見せる「救った人数を誇る」論理とは全く逆の思想だ。もしこれが本物なら、初代聖女は制度の根幹に疑問を投げかけた者であり、その声が消された理由がある。
だが伏せられたものはまだある。壁の下方、剥がれた漆喰の裏に紙片が挟まっているのをセインは見つけた。手で引っ張ると古い羊皮紙が出てきた。赤い紐で束ねられ、 wax の封が割れている。彼は震える指で紐をほどきながら、戸締まりをした夜の時刻を考える。もし深夜にここで何かを持ち出せば、噂を知る誰かに見つかるかもしれない。だがここにあるのは、記録だ。隠された真実。彼は自分の腰に手をやり、心の中の恐れを一つだけ取り出して飲み込んだ。
羊皮紙の一枚を開くと、細かい筆跡が並んでいた。最初の行は、礼拝堂の何者かが残した備忘だろう。だが下へ読み進めると、明瞭に日付と名前、そして当事者の署名があった。そこには「治療を請う者(各自の署名)」「治療者(エルナ)」「同意の詳細」といった項目が並ぶ。数ではなく、個々の意思を記録する細密な帳だ。彼女は治療を行う前に、必ず書面で同意を取り、治療と代償の範囲を説明していた。治癒の結果に対する本人の判断と、家族の承諾、後見人の署名。エルナは制度化された「救済の数」ではなく、「救済の合意」を残そうとしていた。
「これが……本当に」
セインは押し殺すように呟いた。羊皮紙を胸に抱くと、かつて彼が役所で扱っていた書類の匂いを思い出した。印と署名、細かい注釈。かつての自分は、その正確さを誇りにしていた。だが今、彼が抱えているのは撤回の恐れと正義の約束が同じ紙にあるという事実だ。ここにあるのは単なる過去の記録ではない。制度の在り方を否定する証拠であり、王都の歴史を書き換えてきた手の痕跡でもある。
暗がりの中、セインは自分がかつての臆病なままでいることを許せなかった。風が礼拝堂の薄い窓に触れ、紙がさわさわと音を立てる。外では日の出が遅く、鈍い明かりが通りに伸びている。もしこれをそのままにしておけば、今後も同じ誤りが繰り返されるだろう。だが持ち出せば彼は告発者とみなされ、王都の目は彼に向くだろう。彼は思い出す。リゼットの顔、真剣さ。ノエラの冷静。ガルドの荒い息。彼らは自らの思いを帳簿に託し、署名をした。何より、彼らが自分たちの意思で選ぶ権利を守ろうとしているのだ。セインの手が固まる。自分はこのまま帳簿の守り手でいるか、それとも一歩を踏み出すか——選択は見えている。彼は肩を固め、羊皮紙を片手でしっかりと握りしめる。
持ち出しの決意は、動作を鋭くした。セインは壁画の隅に戻り、絵の下にひっそりと刻まれた小さな凹みを見つけた。そこには古い鉄の箱が埋め込まれていた。鍵はなく、蓋は微かに浮いている。彼は箱を引き抜き、中を見ると、黄ばみ始めた帳面と、数枚の乾いた葉書、そして一枚の金貨が入っていた。金貨は目を奪うほど深い輝きを放ち、表面に細い黒の線が走っている。あの黒線だ。セインは息を呑む。これはリゼットたちが扱ってきたものと同じ痕跡を持つ。だがこの金貨の黒線は、壁画の欠けた五つ目と重なり合うように、まるで何かと対話しているかのようだった。
箱の蓋を閉めると、セインは足早に礼拝堂を出た。外の冷気が顔に当たり、彼の頬を刺す。羊皮紙と金貨を抱えたまま、背後の鐘楼が一度鳴った。音は古びていて、かすかな悲しみを含んでいるようだった。彼は息を整え、村道を駆ける。誰にも見られていないはずだ。けれども心の中に、見知らぬ視線がつきまとった。過去の公文書の守り手としての責任、そして今の自分の恐怖。その二つが交叉して、彼はもがいた。
診療所への帰り道、セインは何度も振り返り、礼拝堂の屋根を確かめた。朝の町はまだ人影が少なく、煙が軒からゆっくりと上がっている。彼は呼吸を整え、ポケットに手を突っ込んだ。羊皮紙の感触が指先に伝わる。中を見ると、エルナの記録の端に小さな注釈があった。『記録は公開の時に真実となる。消す者は数に縛られ、残す者は選びを尊ぶ』。その言葉が、今の自分の胸を突いた。セインは自分の臆病さを恥じた。彼はいつも帳簿の裏へ逃げ込み、あるいは有利な書き換えの微細な差込で自分を守ってきた。だがここにあるのは、自らの手で歴史を取り戻す行為