役返しの落第者 第4話「第3章」
広場は朝日のように沸き立っていた。屋台の幔幕が朱色の小片をはためかせ、子どもたちの声と賛嘆の掛け声が渦を巻く。中心に据えられた勇者像は――誰もが見慣れたはずの姿だが、見る角度によってその異様さが露になる。右手は握られた剣、左手は力強く前へ差し出されている。だが像の左手の甲には、指が一本――余計な指が突き出していた。昼の陽射しにその指だけが不自然に反射して、まるで小さな灯りを宿しているように見えた。
広場は朝日のように沸き立っていた。屋台の幔幕が朱色の小片をはためかせ、子どもたちの声と賛嘆の掛け声が渦を巻く。中心に据えられた勇者像は――誰もが見慣れたはずの姿だが、見る角度によってその異様さが露になる。右手は握られた剣、左手は力強く前へ差し出されている。だが像の左手の甲には、指が一本――余計な指が突き出していた。昼の陽射しにその指だけが不自然に反射して、まるで小さな灯りを宿しているように見えた。
リオネルは、像を一瞥してから、群衆の端に足を止めた。隣にはミナ。彼女はいつものように、軽い布の包みを抱えている。風に髪が揺れ、目は素直に好奇を探していた。だが、リオネルには他人には見えぬものがある。余分な指が誰かの人生を預かっている印だと知ったときから、その指の灯りは人の命を映す星のように見えた。
「ここが、アベル公認の巡回だって」ミナが小声で言う。彼女の声は、期待というより訝しさに振れていた。聖女の補助役として扱われてきた過去は消え、今は自分の手で何かをすることを学んでいる最中だ。だからこそ、表面上の華やかさが作り物であることを嗅ぎ取るのは容易になっていた。
リオネルは頷く。朝の空気に、昨日までの村で受け取った痛みの残滓が静かに疼いていた。返した役――小さな「聖女」の補助――の加護の記憶が、ふとした瞬間に彼の胸を押し潰す。彼はその圧を手のひらで押し返し、周囲の様子を確かめた。演壇の上で、青い鉤の紋章がついた戦甲を纏う青年が微笑んでいる。公認勇者アベルだった。
壇上から放たれる光は、計算されたものだ。アベルはひとりの人間であることを忘れさせるほど均整のとれた姿勢で、民衆の歓声に応える。だがその笑顔は、過度に磨かれた仮面にも見えた。リオネルは、いつもの裏方の目で輪郭をなぞる。衣の擦れる音、甲冑の重みで締まる息、彼が受ける期待の量――それらはすべて、誰かが何重にも縫い付けた布と同じだ。
「ここで何か起きるのかしら」ミナの声に、アベルは壇を降りるそぶりを見せた。場は一段と熱を帯びる。人々は、彼のひとつの振る舞いを待っていた。いつだって勇者は見せ場を提供し、民はそれを受け取る。その繰り返しが、共同体の安全感を紡いできたのだ。
だがリオネルには分かっていた。勇者という役割は、光を投げる代わりに誰かの影を引き受ける。余分な指の光り方は、その証だ。彼はミナの手をぎゅっと握り、遠くからでも届く静かな声で言った。
「君はここで隠れるな。見せ物にされる者を、俺たちは守る側に回らせない」
ミナは眉を寄せるが、少しだけ微笑んで前へ出た。人々の中には、彼女を見て囁く者もいる。ある年配の女が、俯きがちな声で「聖女の補助」と評した。言葉は刃のように飛び、アベルの表情が一瞬、変わる。そこには、期待という鎖の一端がはっきりと触れられたことへの反応があった。
その瞬間、空気が変わった。観客の間から、突如として小さな悲鳴が上がる。突進してくるのは鞭のような触手を持った魔獣だった。密集した人の波をかき分け、獣は広場へと姿を現す。だれの手によるものでもない――魔獣はただ、そこにある慣習されたドラマの中で動いているようだった。人々の注意が一点へ集中したとき、そこに創られる怪物はより劇的に見える。
アベルは即座に反応した。彼は剣を抜き、まるで予め決められた振付を踏むかのように獣へと走った。歓声は一層大きくなり、鼓膜を震わせる。リオネルは動かなかった。彼は群衆の中で計算をしていた。これは――本当に救いを必要とする状況だろうか。あるいは、誰かがまた一つ演目を編んだだけなのか。
獣が剣をかいくぐると、刃が火花を散らした。アベルの動きは俊敏で、確かに強い。だがそこには余計な指の灯りが連動するように、広場の装飾の朱片が小さく震え、音が共鳴した。剣と剣がぶつかるたび、勇者像の余分な指が微かに光を吐く。光は一本また一本と波紋のように広がり、像の指先から地面へ流れる。リオネルの胸の奥に、針で刺されたような感覚が走る。それは見知らぬ人の期待と痛みが、ほんの一瞬だけ彼の中で共鳴したことを告げていた。
事は速かった。アベルは獣の体躯を押さえ込み、最後に剣を深々と打ち込む。獣の呻きは、観衆の歓声へと変わった。誰かが水を撒くように拍手を降らせ、子どもたちは踊りだした。アベルは屈んで、倒れた魔獣の傍らに手を置き、無言で民の方へ顔を向ける。歓呼は彼を包み込む。だがそのとき、リオネルは壇の縁で小さな動きを見逃さなかった。
観客席の片隅で、一人の老女が硬直していた。彼女の掌には、朱色の配役札が握られていた。それは「決める者」とでも書かれたような文字で擦られており、文字の周りには余白のついた古い筆跡が残る。老女の唇は震え、小さな涙が頬を伝っている。何かが彼女を縛っている。その紐は見えないが確実に存在して、勇者の演出に欠かせない部品になっていた。
リオネルは一歩前に出る。空気は一気に沈む。彼は人々の注目を買ってしまうのを恐れていたが、避けることはできなかった。彼には一つの仕事がある。人が自分の名で立つための舞台を取り戻すことだ。今ここで、あるいはいつか――それを成すために。
「アベル・ヴァレン」彼は静かに、しかし確かな声で名を呼んだ。公的に知られた「勇者」としての名ではなく、彼が調べ上げた本名だ。呼び方は工夫して選んだ。配役が貼られる前の、まだ一人の少年だった頃の名だ。
呼ばれた青年の体が、僅かに震えた。群衆は息を飲む。アベルは顔を上げ、リオネルを見た。彼の瞳は呼び名に何かを疼かせたが、同時にその瞳は恐怖にも満ちていた。舞台に上がるために、彼は長い間誰かを捨ててきた。今さら別の自分になることは、考えただけで穴が開くように怖いのだ。
「何をするつもりだ」アベルの声は低く、しかし冷たさを持たなかった。それは人間としての問いかけだった。リオネルは兵士や配役院の威圧ではなく、なぜ彼がそこにいるのかを語りかける方法を選んだ。
「奪うつもりはない。ただ――君がそれを望むなら、返す手伝いができるかを聞きたかっただけだ」リオネルは言葉を選んだ。能力の性質を口に出す気はなかった。そうすれば、ここで強制的な奪還を試みたと誤解されかねない。自分の力のルールは、相手の意志が第一だ。彼はそれを守る。
アベルは笑った。だがその笑顔は空虚で、思い出のように薄い。「望む? そんなこと――僕が望めば、誰も悲しまないのか?」彼は剣を鞘に戻さず、指先が冷たく金属に触れていた。観客の視線が、彼の背中に群がる。そこにはすべてが乗っていた。笑顔、称賛、戒め。全部を失うことは、自分の存在を失うことに等しいと、彼は思っている。
その夜、というかその朝に彼が胸に抱いた恐怖は、幼い記憶の欠片と結びついていた。誰も彼を見なかった日々。母の手が忙しく、通りの向こうで称賛を浴びる別の少年に目を向ける父の姿。ヒーローになることは――忘れられないようにする唯一の方法だった。彼は自分を騙し、世の中を騙し、やがて本当に勇者になった。民衆の歓声は、彼という個体を固定した。
リオネルはその痛みを感じ取った。彼は胸の中で既に何度も見知らぬ人の期待と痛みを受け取ったため、他者の恐怖を判別する術に長けていた。