役返しの落第者 第10話「第9章」
風は冷たく、役所の石段に吹きすさぶ。午後の日差しはまだ強かったが、薄い影を落として人の顔つきを固くする。リオネルは塞いだ胸の奥に小さな躊躇いを抱えたまま、やっとのことでその建物の扉を押し開けた。入口の上に架かる古い木製の札には「戸籍・配役記録所」と刻まれている。そこに差す朱色が、夕方の光と混ざって窓際で翳る。
風は冷たく、役所の石段に吹きすさぶ。午後の日差しはまだ強かったが、薄い影を落として人の顔つきを固くする。リオネルは塞いだ胸の奥に小さな躊躇いを抱えたまま、やっとのことでその建物の扉を押し開けた。入口の上に架かる古い木製の札には「戸籍・配役記録所」と刻まれている。そこに差す朱色が、夕方の光と混ざって窓際で翳る。
「やっぱりここか」
ミナが肩越しに呟いた。彼女の視線は、薄いカーテンの向こうに重ねられた紙束に向けられている。セナは黙って前を歩き、記録係だった頃の癖で足音を確かめるように床を踏んだ。重心が低く、目は冷静だ。ノエルはいつものように鋭い視線を巡らせ、グラウは外套の裾を掴んでいる。五人はあまりにも不釣り合いな格好で、しかし一つの目的でここに集まっていた。
セナが細い鍵束を差し出す。配役院の内部から持ち出した、見覚えのある薄い鋼の鍵だ。リオネルはひとつ手に取り、重さを確かめた。金属は冷たく、指先に余計な緊張を残した。
「手早く。ここは防災記録を除いて、外部の者が立ち入ることを禁じている」セナの声は静かだが確固としていた。「私が目を引く役者を一つ用意しておく。その隙に帳面を探す」
扉は小さな倉室につながっていた。紙と皮革の匂いが鼻を突き、埃が光の筋となって浮かぶ。棚には地名と氏名の札が整然と並ぶ。赤い配役札が、何枚か無造作に挟まれたファイルの間で朱色を残していた。それらは以前セナが見た配役票とは違って、古びて黄ばんでいる。だが目に見えぬひとつの違和感がリオネルを引き付ける。どれも、何処かで筆圧が変わっているのだ。
セナは口の中で数を数えるようにページを繰った。指先が震えないのを確かめる。やがて彼女は小さなな声で止まった。
「あった」
古い帳面の表紙を開くと、書かれているのは村の戸籍一覧。細長い行が並び、一つずつ人の名が墨で刻まれている。リオネルは自然と掌に汗を握った。そこには、自分の母の名もあった。生まれた日、村の産婆の名前、そして——「役」の欄に、朱い印が押されている。そこには「庶子」と薄く判子が押され、その上には鉛筆でなぞられたように別の文字が走っていた。
リオネルの目は、そこに食い入った。母が自ら書いたという記憶が、彼の胸の底のそれより確かに薄かった。だが記憶は断片的だ。母の手の震え。小さな宿屋の灯り。彼女が夜明けにため息を吐いていたこと。だが「庶子」という役を選んだという確信はない。彼は、前世の裏方として培った観察の習性で、線の濃淡、筆の方向、紙の沈み具合を眼で追った。
「見て。ここ」セナが指さす。拡大するように押された判子の縁から、別の細い線がわずかに顔を出している。それは鉛筆でも、後からなぞった筆記でもない。細かい横線が、最初の筆致とは別の角度で重ねられている。
ミナが息を飲む。「字が……変わってる」
「それだけじゃない」セナは低く言った。「この判が押されたのは、生まれてすぐだったはずだ。けれど、この紙の折れ目、中段の辺りにかかるインクの滲みが違う。後から、強引に書き換えられた痕跡がある」
グラウはふっと視線を帳面の奥へ移した。彼の忘却の制約は、記憶の補助に仲間を必要とすることを覚えている。セナの指先がなぞる。一ページ、また一ページ。朱い札が何枚か、別の名前にも挟まれている。だがそのなかの一つに、筆跡が途中から違う手に変わるものがあった。母の名前の上に重なるその一画が、まるで別人の存在を示しているように見えた。
リオネルはそっと、母の名の縁に触れた。指先に紙のざらつきが伝わると、胸の奥で微かな波紋が立った。彼はその感覚に素早く吸い寄せられそうになったが、ここで立ち止まるべきだと自分に言い聞かせた。能力「役返し」は、対象が自分の意思で拒否した役にのみ触れたとき発動する。母が此処にいない。母の意思を確認していない。仮に触れてしまえば、拒否があれば彼は役を一度引き受けねばならない。記憶と痛みが押し寄せるだけでなく、同一性が薄れる代償を負う。リオネルは過去の一度の返却で失神した記憶を思い出し、指を離す。
「やめろ」ノエルの声が鋭く響いた。彼の唇にはいつもの無駄のない言葉が滲む。「何があっても、本人の意思を確認しろ。無理に触るな」
セナは頷き、リオネルの手の届くところに帳面を引き寄せた。そして、ページの隅に押された小さな印章の痕跡を懐中の小型ランプで照らした。光が傾くと、その印章は二層に見える。下の薄い文字列は時間と共にかすれ、上の重ねたインクの輪郭は、少し違う色を帯びている。古い判が押された後に、新しい判が重ねられたのだ。セナの眉間に影が落ちる。
「配役院は、役を固定するときに証跡を残す。だがこれは——」彼女の声は呟きに近かった。「ここに書かれた『庶子』は、母が自ら選んだものではない。誰かが後で、その役を――固定した」
誰が、いつ、何のために。疑問が五人の間に重く垂れる。外の廊下で、子どもたちのはしゃぐ声が微かに聞こえた。市民の生活は、帳面の上のどす黒い決定だけで振り回されている。
「配役を『固定する』ってどういうことだ」グラウが訊ねる。彼の眼は眠そうだが、問いは鋭い。
「配役院では、研鑽のために人の適性を『試験』して、それを公開することが権力の根幹になった」セナはその理由を淡々と説明する。「だが制度はいつしか、配役を社会秩序の根幹に据える方法へ変わっていった。判を押すことで、その人の選択の余地を奪う。『固定』という名の下に、彼らは人の人生を決定する」
「でも、どうして母さんの欄だけ書き換えられた?」リオネルの声がわずかに震えた。彼はしばらく黙っていた母の顔を思い出す。小さな手で針を持ち、リオネルが幼い頃に縫い物の端を噛んで遊んでいた時のこと。彼女はいつも、誰かに優しくて、しかしどこか恐れていた。配役で縛られるほうが、安全だと言われれば、選んでしまうかもしれない。だがそこには、自ら決めたという確証がない。
セナは手早く、別のファイルを開いた。そこには村の別の戸籍があった。側注に小さな文字で記録された日付と、誰かのイニシャル。そこから派生する連鎖は細く長い線となって、配役院の地方監督、さらにその上の役職者たちの名へとつながっていく。セナはページを指でなぞるたびに、どこかで息を殺した。
「ここ。見て」彼女が示したのは、破られかけた封筒と、その中で揺れる一枚の朱い札だった。札の裏面には、墨で小さな記号が走っている。記録上では管理者の略号として使われるものだ。だがその略号には、見覚えのある曲線が混じっている。セナはそっと札を開き、表面の下に隠された微かな筆跡を照らした。
「これは配役院の内部用スタンプと同じパターン。だが、これはここに並ぶどの書類よりも新しい。誰かが不自然な手順で、出生届を改竄している」セナの声が冷たく硬い。手の震えはどこにも見えない。
リオネルは息を呑む。胸の奥が冷えるような感覚がして、あの夜、劇場の崩落で舞台裏に響いた金属の音、衣装の燃える匂い、そこから逃げる人々の叫びがよみがえった。彼は自分を舞台の裏方だと信じている。誰の役割が増え、誰の人生が削られたかを見抜くために選ばれた。しかしここで彼がするべきことは、記録を暴くこと