役返しの落第者

役返しの落第者 第1話「序章」

暗がりの匂いは、古い布と汗と油と、舞台装置に染みついた年月とを混ぜ合わせたものだった。佐倉透はいつもの癖で指先を確かめる。針の跡がまだ指先に残っている。朝から続いた公演でほころびた衣裳を繕い、幾度も袖口の裏を縫い直したため、掌の皮膚が硬くなっていた。三十歳。舞台の袖と楽屋の間が自分の世界だった。誰かが歓声に酔えば彼は衣裳の紐を結び、誰かが照明に照らされるとき彼は裏で息を合わせた。主役を張ることなど望んだことはなかった。舞台が成立するならそれで良かった。

暗がりの匂いは、古い布と汗と油と、舞台装置に染みついた年月とを混ぜ合わせたものだった。佐倉透はいつもの癖で指先を確かめる。針の跡がまだ指先に残っている。朝から続いた公演でほころびた衣裳を繕い、幾度も袖口の裏を縫い直したため、掌の皮膚が硬くなっていた。三十歳。舞台の袖と楽屋の間が自分の世界だった。誰かが歓声に酔えば彼は衣裳の紐を結び、誰かが照明に照らされるとき彼は裏で息を合わせた。主役を張ることなど望んだことはなかった。舞台が成立するならそれで良かった。

その日も舞台は満員だった。公演は笑いと喝采に満ち、客席の熱が幕を振るわせる。張り詰めた空気の中で、透はいつもより多くの手を差し伸べた。若い役者の背中に消えかけの布を押し込み、老人俳優の襟を直す。闇が絞まるほどに光が強くなる。舞台袖の狭い通路で、彼は朱色の小さな札が舞台袖の陰でひらりと光るのを見つけた。札は誰かの襟に留められていた。普段は舞台の小物や配役表に使う色だ。だが、そこに貼られている札は、どこか違う熱を帯びて見えた。

「避難、三拍子。──右、左、中央。右、左、中央」

声は、幼い女の子のようだった。短く平坦な節で、舞台裏の狭い空間に反射して、透の耳に何度も戻ってきた。彼は振り返ると、薄暗がりの中にいる少女の顔を見た。十一か十二。舞台の見習いか、あるいは客席で手伝っている孫娘だろうか。少女は朱色の札をぎゅっと握りしめ、唇だけでその三拍子を繰り返している。誰も彼女を騒がせようとは思っていないようだったが、透はその声の奥に微かな震えを感じた。

舞台は幕間の小道具転換に入っていた。古い天井裏が軋み、役者たちは袖から袖へと滑るように出入りした。透は手早く衣裳のスナップを探り、立ち位置を確認し、音響が合図を送るのを待った。その瞬間、上方から低い金属音が鳴った。次の瞬間、舞台上の照明棟が不規則に揺れ、そこから太い櫓材が音を立てて落ちた。歓声は悲鳴に変わり、明かりが断続的に消える。粉塵が空気を埋め、木の裂ける匂いが口の中に広がった。

「出口は前じゃない! 裏口へ!」

透は咄嗟に声を張り上げ、駆け出す。袖の隙間から飛び出す俳優たちを押し、迷う客を引っ張り、足場の悪い廊下を駆け下りた。彼の指は、衣裳の綻びを結ぶためだけにあるのではない。誰かの袖口を掴み、その人の目線を合わせ、立つべき向きを教えることも彼の仕事だった。彼は声を出し続けた。名前を呼び、役名ではなく「あなた」と呼んだ。舞台に立つ人間は、誰かが呼んでくれなければ外へ出られないことを、彼は知っていた。

だが崩壊は容赦なく進んだ。廊下の梁が剥がれ落ち、通路が砂のように崩れ、照明器具が雨のように降る。人々はパニックで密集し、足の踏み場を失って倒れる。透は一人、また一人と手を伸ばし、押し合いの中で人間の壁を作った。袖口から顔を覗かせた少女の朱札は、薄い光を放っていた。彼女は三拍子を口にし続け、声は幾度も裂けては戻ってきた。透はその声を合図にして、群れを誘導した。彼女の札の色が、薄闇の中で灯火のように見えた。

通路の角で、ひとつの紙片が床に滑り落ちた。取り上げる暇がないはずなのに、透の足はそれを拾い上げた。汗と埃で指が濡れた。紙は小さな申請書のようで、泣き疲れた字で何かが書かれている。透はそこに母の名を書いた署名を読み取った。筆跡が途中で変わる。最初は丸みを帯びた、確かな字。だが三行目からは急に角ばった筆跡に替わっている。まるで別人が続きをなぞった跡のように。透は一瞬、眉をひそめた。こんなときに文書の筆跡を気にするのは、裏方の職業病かもしれない。だがその違和感は、流れる血のように嫌な冷たさを透の背筋に伝えた。

「おい! 左手を上げて! 人の流れはそっちだ!」

彼は叫びながら、最後尾で足を引き上げていた役者に腰紐を結び直してやった。役者は「ありがとう」としか言えない顔で笑った。人間の命のためにする細かな手仕事は、どれほど華やかな称賛よりも確かなものだと透は思った。誰かのマントの重みを肩に抱え、誰かの帽子の飾りを整える。彼の手の中で舞台の世界は成り立っていた。

だが、突然、舞台の真上を支えていた梁が亀裂を走らせ、巨大な板が滑り落ちた。透は目の前の人間を突き飛ばし、自分の体を盾にした。板は胸を押しつけ、鼻腔に木屑が入った。痛みが走ったが、彼は動かない。彼はまだ結ばれていない紐を結び、まだ踏切れていない足を引き寄せ、まだ目を開けている人の顔を見た。少女の朱札が、彼の視界の隅で朱色の小片として揺れた。彼女の三拍子はだんだん遠ざかるが、途切れずに続いている。

熱い光が裂け目から差し込み、彼は薄れゆく意識の中で奇妙な安堵を覚えた。裏方として、舞台が崩れようとも、自分の役目は最後まで果たせたのだという満足。そして彼は、ふと前世の小さな記憶に触れた。幼い頃に初めて衣裳を縫った夜、観客席から聞こえた少女の笑い声、舞台灯のぶつかる音──それらが一本の線で結ばれているように思えた。彼は誰かの役目を見抜く目を持っていた。誰が主役でも、誰が袖の奥でも、舞台は総体である。彼はその総体を守ったのだ。

暗闇の縁で、何かが透の掌に触れた。それは冷たく、硬い。朱色の札が、薄い布の下で彼の指に柔らかく擦れた。札には何か小さな文字が刻まれているようだったが、埃にまみれて読めない。だが触れた瞬間、透の頭に言葉が浮かんだ。短い、子供の遊び歌のような言葉。

「名を知れ。望みを聞け。肩を背負え。」

ほんの三つの拍子。彼はそれを何のために思ったのか理解できなかった。だがその言葉が、まるで古い針と糸が布を縫うように、彼の記憶に縫い込まれていくのを感じた。疼くような感覚もあった。誰かの痛みが、遠い共鳴のように掌から上がってくる。だがその感覚はすぐに霧のように消え、代わりに深い静寂が来た。

そして光は消えた。透は天井の木片の影に飲まれ、無数の音が遠ざかるのを聞いた。誰かが自分の名前を叫んでいる。それが自分の名前なのかは分からない。彼の最後の視界は、朱色の小片が雨のように舞う中で、少女の三拍子が鈍い鐘の音のように響くことだった。

次に目を開けたときは、別の世界の朝だった。肌は薄く、体はせせこましく、握られているのは新生児の小さな手だ。暖かい布に包まれ、視界の端に母親らしい顔が寄せられている。言葉はもうまともに出ないし、体は生まれたばかりの湿り気で覆われている。だが透の内側には、舞台裏で覚えた感覚が鮮烈に残っていた。衣裳を縫うときの力加減、紐を結ぶときに見る相手の眼差し、人を呼ぶときの抑揚──それらはこの赤ん坊の中でも変わらず存在していた。

誰かが低く囁く。

「リオネル・アシュ、よく来たな」

それは母の声だろうか。透は戸惑いながらも、その名の響きに小さく体を揺らした。彼は新しい呼び名を受け入れようとした。生命の驚きとともに、頭の中にあの三つの拍子が再び鳴る。名を知れ。望みを聞け。肩を背負え。その言葉は生々しく、指先に糸が触れるように感じられた。朱色の札のぬくもりが左手の奥に残っている気がする。だが自分の左手はまだまともに動かない。

乳母が寝床のすぐ脇で何かを囁いた。暖炉の灰の匂いと、新しい布の匂いが混ざる。誰かが紙をまとめて