八月だけ逆さまの団地

八月だけ逆さまの団地 第13話「第12章:八月の終わり、選択の結末」

九月一日の朝、鯨ヶ丘団地を包んでいたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。 昨夜の狂乱が嘘のように、風は穏やかで、空気からはあの独特の湿り気と重力が消えていた。五階の境界線を越えても、もう耳の奥で音がすることはない。階段を登れば息が切れ、降りれば膝に重みがかかる。それはあまりにも当たり前で、そしてあまりにも尊い「現実」の感覚だった。 晴人は、団地の入り口に置かれたパイプ椅子に座り、大型トラックが次々と敷地内に入ってくるのを眺めていた。今日から、本格的な立ち退きと解体準備が始まる。 「晴人くん、おはよ」 背後から声をかけてきたのは、沙希だった。彼女は小さなリュックサックを背負い、引っ越し業者のトラ

九月一日の朝、鯨ヶ丘団地を包んでいたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
 昨夜の狂乱が嘘のように、風は穏やかで、空気からはあの独特の湿り気と重力が消えていた。五階の境界線を越えても、もう耳の奥で音がすることはない。階段を登れば息が切れ、降りれば膝に重みがかかる。それはあまりにも当たり前で、そしてあまりにも尊い「現実」の感覚だった。
 晴人は、団地の入り口に置かれたパイプ椅子に座り、大型トラックが次々と敷地内に入ってくるのを眺めていた。今日から、本格的な立ち退きと解体準備が始まる。
「晴人くん、おはよ」
 背後から声をかけてきたのは、沙希だった。彼女は小さなリュックサックを背負い、引っ越し業者のトラックを見つめていた。
「おはよう。……引っ越し、今日なんだね」
「うん。麓の新しい市営住宅。エレベーターがあるんだって。お母さんが、もう天井を歩かなくていいって喜んでた」
 沙希は少しだけ寂しそうに笑った。彼女にとって、あの逆さまの世界は恐怖の対象であると同時に、兄との微かな繋がりを感じられる唯一の場所でもあったのだ。
「お兄ちゃんのこと……最後に会えてよかったね」
「……うん。何も言わなかったけど、笑ってた。私がちゃんと大きくなったの、見てくれたんだと思う」
 沙希は空を見上げた。そこにはもう、逆さまの住人たちの影はない。ただ、秋の気配を孕んだ高い青空が広がっているだけだ。
 そこへ、作業服を着た誠司が歩いてきた。彼は団地の管理組合と市の担当者の間に入り、住民たちの引っ越しの手伝いを買って出ていた。
「誠司さん、こっちの棟の荷出しが終わりました!」
 若い作業員の声に、誠司は力強く頷いた。かつての隠遁者のような影は消え、彼は一人の建築士として、この場所の「最期」を看取る責任を果たそうとしていた。
「晴人、母さんには連絡したか?」
「うん。今日、父さんと一緒に帰るって言ったら、驚いてたけど……待ってるって」
 誠司は少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「そうか。……この団地がなくなるのは寂しいが、これは必要な『終わり』なんだな。善蔵さんも、きっと今の光景を見て安心しているはずだ」
 晴人は、祖父の万年筆をポケットから取り出した。地下の球体に突き立てた際、ペン先は曲がり、もう文字を書くことはできない。けれど、その古びた万年筆には、場所の記憶と人々の意志が刻まれているような気がした。
 住民たちは、それぞれのペースで団地を去っていった。
 ある老人は、かつて自分が天井に吊るしていたお気に入りの風鈴を大事そうに抱え、またある家族は、子供たちが逆さまの廊下で遊んだ思い出を笑い合いながらトラックに乗り込んだ。
 彼らは場所を失うのではない。場所という束縛から解放され、その思い出を糧にして新しい生活へと踏み出していくのだ。
 夕暮れ時、最後の住人が去り、団地のゲートが閉じられた。
 晴人は最後にもう一度だけ、八階の窓を見上げた。あそこにはかつて、逆さまの父がいた。孤独に震えながら、届かない設計図を繋ぎ合わせようとしていた父が。
 今はもう、そこには誰もいない。ただ、沈みゆく夕日が空っぽの部屋をオレンジ色に染めているだけだ。
 団地は静かに、その役目を終えた。五十年にわたる「孤独を繋ぎ止めるための装置」は、最後に最高の「繋がり」を生み出して、永遠の眠りについたのだ。
 晴人は最後に、自分の足元の地面を強く踏みしめた。そこにはもう、空へと落ちる不安も、天井を歩く違和感もない。ただ、しっかりと自分を支えてくれる、揺るぎない大地の感触があるだけだった。その確かさが、これからの人生を歩んでいくための、何よりの支えになるような気がした。