竜骨天譜 第5話「第5章|竜骨天譜」
三人が坑道の口へ戻ると、夜風に乗って砂の匂いが変わっていた。浅い月は雲に隠れ、空は濃い紫に染まっている。灯りの輪の外側には夜の行者のように影が伸び、村の太鼓の音が遠くで反響していた。ガルドは器具を抱え直し、肩に汗がにじむのを感じていた。石壁の白い筋が暗闇に溶けぼやけると、彼は息を吐いて、自分達が見たことの重さを噛み締めた。
三人が坑道の口へ戻ると、夜風に乗って砂の匂いが変わっていた。浅い月は雲に隠れ、空は濃い紫に染まっている。灯りの輪の外側には夜の行者のように影が伸び、村の太鼓の音が遠くで反響していた。ガルドは器具を抱え直し、肩に汗がにじむのを感じていた。石壁の白い筋が暗闇に溶けぼやけると、彼は息を吐いて、自分達が見たことの重さを噛み締めた。
「竜骨の心へ、と言ったか」リゼットが静かに言う。帳簿の角を指で押さえ、触れただけで決意が伝わるような身体の固さを見せていた。
晴臣は群青の譜面をしまい込む仕草をした。瞳の端にあった同心円は、まだ残像のように見える。声は穏やかにする。断言を禁じる自分の掟が、今この場でも彼の手綱だった。「指し示す先は深さだ。だが、それをどう扱うかは、俺たちだけの判断ではない。外へ持ち帰って、みんなで見るべきだ」
ナギは腕に巻いた赤布を三度軽く結び直した。布の端が砂をはじき、指先に小さな切れ痕を残す。彼女はあの結び目を無意識に整えることで自分を落ち着かせているようだったが、その動作のたびに晴臣は何かが通じる気がしてならなかった。赤布は運び屋の飾り以上の意味を持ち始めている。旗や合図へと形を変えつつあった。
村へ戻る道は、往路とは違って静けさの輪郭が深かった。人々は灯火の下で固まっていて、互いに囁き合う声の隙間から不安が漏れていた。暦院の掲示板に貼られた証拠と、夜ごとの噂が風に運ばれる。誰もが何かを待っているように見えた。
砂の上に遺棄された荷車を見つけると、ナギは顔を細めた。「誰かが走った形跡だわ」彼女は土地勘で道を読む。足跡の深さ、砂の流れ、車輪の擦れかた。それらをひとつずつ拾っていくと、線は村の外れへ続いていた。三人は無言でその線を辿り、やがて一本の古い軍用路に出た。乾いた土と砂が混ざり、古い標識が風に擦れていた。そこに残された色は赤──ナギの赤布と同じ、くすんだ朱色だった。
暗がりの向こう、馬の嘶きが聞こえた。金具が擦れる音と、誰かが低く呟くような声。ナギが身を沈め、晴臣は遮蔽物の陰からゆっくりと覗いた。影の中に立つ一人の男は、砂騎の装備を纏っていた。革の肩当て、塗装された臂当て、そして背には折りたたまれた軍用標識。彼の目は疲れ、背には複雑な傷跡が走っている。軍の色は確かにそこにあったが、男の手に握られたものは、戦士の誇りよりも困惑の重さを示していた。
「やめておけ」リゼットが小さな声で言う。「敵だ。兵ならば通報すべきだ」
だが晴臣は首を振った。直感が、あの男を別の種類の存在だと言っていた。彼はゆっくりと肩幅に合わせて立ち上がり、三人に小さく頭を下げると、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。馬は係留されていなかったが、男の歩き方は兵士の訓練に染まっている。距離が縮まるにつれて、ナギの手は赤布を引き上げ、それを高く掲げた。赤布が月明かりに反射し、いつもの合図のように見えた。
「俺はイオだ」男は言った。声は砂を飲み込んだように渋かった。「元、帝国の砂騎兵だ。だが、ここに来たのは敵を探すためじゃない。……助けを、求めに」
その言葉に、三人は一瞬だけ互いの顔を見た。警戒と好奇、どちらが勝るか。ガルドがゆっくりと前へ出る。器具はまだ抱えられているが、手は器具の側面に触れていた。触れ合う金属が小さく鳴る。
「何を知っている」ガルドは問うた。彼の声に嫌疑はあまりこもっていなかった。ただ事の深さを測ろうとしているだけだ。
イオは肩をすくめた。「帝国は、予報を軍事化している。暦院は権威を売ることで国を動かしている。俺が見たのは、予報を『兵器』に変える計画だ。竜骨の振動を利用して風を誘導し、砂嵐を特定の都市に送り込む。守るべきは城ではなく、乾いた大地だと教えられたが、使われたのは人だ」
ナギの眼差しが鋭くなる。赤布を三度結ぶ指先が微かに震えた。「風を操る方法を、帝国が持っているの?」
「完璧ではない」イオは素直に首を振る。「だが可能だ。白夜炉はまだ完成前だが、既にいくつかの試験で近隣の村を干上がらせた。都市の上で雲を払い、周囲を枯らす。暦院のような独占側と同盟を結べば、帝国は『恵み』を売り、従わない都市には嵐を送る。命令で風を起こす。命令を受けた兵士は、それを疑わない」
晴臣の胸に、過去の恐怖が刺さる。かつて自分が「正しい」情報を出しても人が動かなかったとき、逃れられない結果が生まれたことを思い出す。今度は、正しさが命令へと変えられ、人の選択を奪う──それは彼の掟に反する。群青の譜面が後頭部でうずく。だが彼はまた、断言を拒む人間でもあるのだ。
「だから脱走したのか」リゼットが言った。言葉は刃のように短い。「それとも、両刃になるのを恐れたのか」
イオは顔を曇らせた。「兵として命令に従わなければ生き残れない。だが、命令で家族が吹き飛ばされるのを見たくはなかった。最後の作戦で、俺は輸送を遅らせた。それで味方の数人が罰せられた。俺の罪だ。だが、俺はここへ来て、自分が何を手放せるかを見極めたかった。帝国の記録も、補給の路線も、炉の設計図だって持っている」
ガルドが短く笑った。笑いは苦かったが、皮肉ではない。「兵の言い分か。だが証拠がなければ他人の言葉だ。暦院は他人の言葉を切り捨てるのが得意だ」
イオは肩から布を解き、小さな包みを差し出した。その包みは粗末な布で包まれており、中からは折りたたまれた紙の端が覗いた。表面には軍の印章が見える。印章は乾いた血のように暗い朱で押されていた。ナギの赤布と同じ色味が、皮膚感覚的に重なって見えた。
「これは……」リゼットが手を伸ばしかけるが、イオが引き止めた。「見せる。だが、保証はできん。帝国の監視は厳しい。俺がこれを持っていることが発覚すれば、ここに居られない」
晴臣は一歩前に出る。観測者としての直感が、紙切れの重みを測った。「ここで見るのは危険かもしれない。だが見なければ、何も出来ない」と彼は言った。言葉には慎重さがあった。断言はしないが、情報は集める。彼の手は震えていなかったが、内側の水分が奥の方で減るような感覚があった。
イオが包みをほどき、軍の命令書が露わになる。文字は整然とし、命令の語調は冷たかった。晴臣は浅く息を吸い、群青の譜面を覗くことを抑えて、ただ紙面を見つめた。命令書の中心には、発信者の名と目的、そして一行の黒い太字があった。
「砂嵐の誘導実施日――」イオは紙をめくり、指先で日にちを指した。その数字は冷たく、まるで予め仕組まれた暗号のように静かに光っている。
三人と一人は、声にならない重さの中でその日付を読み取った。周囲の風が一度だけ、綺麗に止まったように感じた。暦院の太鼓が遠くで鳴り続ける。誰もが自分の内側に何かを確かめている。晴臣は唇をかんだ。観測者の掟が彼の背中を押す。「断言はしない」と彼は再び心の中で繰り返したが、その眼差しは確かに、彼ら全員の未来を見据えていた。
日付は、思いのほか近かった。外が暗いからこそ、紙の黒い文字は未来を鋭く切り出しているように見えた。ナギは赤布をぎゅっと握り、結び目が指に食い込むのを感じた。ガルドは器具に手を置き、機械の冷たさを通して現実を冷静に測ろうとする。リゼットは帳簿を抱え直