竜骨天譜 第22話「巻末特別章|巻末特別章」
ガルドは骨の髄を覗き込んでいた。竜骨の最深部を穿った後、切り出された大きな骨片の一枚が共同校舎の倉庫に置かれている。器具の材料として回収したその芯は、一見何の変哲もない白い棒だが、割れ目に触れると潮の匂いと古い紙のような乾いた香りが混じった。ガルドはいつもの癖で縁に残った銀色の滴を指先で転がし、慎重に割れ目を広げた。
ガルドは骨の髄を覗き込んでいた。竜骨の最深部を穿った後、切り出された大きな骨片の一枚が共同校舎の倉庫に置かれている。器具の材料として回収したその芯は、一見何の変哲もない白い棒だが、割れ目に触れると潮の匂いと古い紙のような乾いた香りが混じった。ガルドはいつもの癖で縁に残った銀色の滴を指先で転がし、慎重に割れ目を広げた。
内部は意外に空洞で、薄い膜のようなものが何層にも重なっている。ガルドは懐中の鉄具で膜をやさしく引き剥がすと、そこに一枚の紙が挟まっていた。端は黄ばんで弱く、角には折り目が残る。寸法も紙の繊り方も、どこか昔の気象台で使われていた様式に似ていた。彼は息を詰めてそれを取り出し、火の灯りの下でめくった。
紙には見慣れた筆致があった。細く、しかし迷いのない字。晴臣が前世の観測小屋で使っていた癖のある曲がり方が、そこにあった。ガルドは一瞬で心臓を突かれたように手が震えた。紙面の上部に、小さく、しかし確かな墨でこう書かれていた。
「境界嵐、次周期。別世界の観測者は南の海で待つ」
日付の欄には、晴臣が前世で命を落としたその後の年と月と日が記されている。ガルドは紙を返しながら、ぬるりとした不可思議な感覚に襲われた。竜骨の内側で時間は歪むのか。あるいは、どこかで記録が折り重なって漂流していたのか。いずれにせよ、この紙はここにあるべきではなかった。
外の空気を取り込むために倉庫の扉を開けると、夜風が赤布の端を揺らした。焚き火のあった広場では、やがてくつくつとした笑い声と、学生たちの話し声が聞こえた。ガルドは紙を胸の内側に折り畳み、走るようにして教室の灯りの下へ急いだ。そこには晴臣、ナギ、リゼット、イオが残務を片付けていた――学校の設立以来、日常は忙しく、彼らはいつも夜まで働いていた。
「どうした、ガルド?」ナギが杖を投げ出し、砂を蹴って寄って来る。彼女の赤布が三度軽く結び目で擦れ、夜風に小さな音を立てた。リゼットは書類の束から顔を上げ、眉を寄せる。イオは無言で前を見据え、軍人時代の癖でまず警戒を示す。
ガルドは息を呑んで紙を差し出した。晴臣の指先は紙に触れると僅かに震えたが、表情は崩れない。あの頃と比べれば、彼の目は随分と穏やかになっていた。群青の譜面を覗き込むときにだけ現れていた金色の亀裂は、もうほんの淡い痕跡になっている。能力は彼の中で休火山のように静まっていたのだ。
「これ……」ガルドの声が小さく、紙の墨の黒さだけが昼間のように際立った。「晴臣の字だ。しかも日付が、前世の後だ」
晴臣はその紙を取り、ゆっくりと読んだ。目は文字を追うが、どこか遠くを見ているようでもあった。彼は一瞬、雨の音を思い出すように目を細めたが、すぐに顔を上げた。
「南の海……か」短い、しかし確かな声だった。「俺が……前の世界で最後に書いたあの雲の周期と、何かが繋がってるのかもしれない」
ナギが腕を組み、前に出る。「それって、行くってこと? あんたが一人でまた――」
「行かない」晴臣は鋭く否定した。言葉に含まれた重さは、過去の自分の判断を繰り返さないという誓いそのものだった。火の光が彼の横顔を照らし、影が長く伸びた。「一人では行かない。あれだけはもうやらない。俺たちが、学校が、共同観測網がある。それを持って行く。行くなら皆で、観測者の代表を連れて行く」
イオの顎が強く動いた。軍で見てきた「単独決断」がもたらす惨状を、彼はよく知っている。だが彼が示したのは非難ではなく、静かな了解だった。
「情報を出すのは良いが、行く先の準備だ。帝国の残党や白夜炉の残骸があるかもしれない。奴らはまだ竜骨の切り出しを諦めていない」イオはそう言って、ある二枚の地図をテーブルに広げる。指先で海岸線をなぞりながら、かつての軍用標識の位置を指摘した。晴臣は黙って頷く。
リゼットはすぐに実務的になった。「代表は学校からだけでなく、連盟の各都市、遊牧民の長、坑道の労働者からも出すべきよ。南の海が示すものが何であれ、それは多様な観測で検証されなければならない。暦院のやり方を繰り返してはいけない」
ナギは突然嬉しそうに笑った。怖さと好奇心が混じる笑いだった。「やっとあたしの赤布が役に立つかもしれないな。海の匂いを取る方法、教えてやるよ。風の匂いと潮の味の差は、耳で覚えろって言ったろ?」
ガルドは紙の端を舐めるように見つめ、やがて手を差し出した。「器具も持って行く。欠測を埋めるんじゃなく、欠測を欠測として記録する。何があっても、記録の改竄だけは許さない。俺はそれを守る」
晴臣は共同帳を開いた。そこには過去の失敗も成功も、教師や学生の落書きも混じり合っていた。彼は一行ずつ指で辿りながら、皆の顔を見た。月明かりに照らされるそれぞれの表情は、遠い日の緊張や喪失を経て、今は互いの弱さを許せるものになっている。
「――いいか。行くとしたら、こうする」晴臣は一つずつ決まり事を言った。声は淡々としているが、そこに揺るがぬ決意があった。「一、現地での観測は必ず三人以上で写し取る。二、予報は断言しない。必ず不確実性を付す。三、記録は共同帳に直ちに写し、誰かが一人で保管しない。四、行動は各代表が自分の共同体に戻って判断できるような形に分配する。五、危険があれば即座に撤退する。命を使って証拠を残すのは、もう終わりだ」
ナギの目が光った。イオはゆっくり唇を閉じ、頷いた。リゼットは手帳にメモを取りながらも、その指先はどこか震えている。ガルドは器具を抱え直し、紙をもう一度見た。
「南の海で待つ、か」ガルドの声がやけに低い。彼は骨髄を整理した際に感じた、あの海の記憶の余韻を想像した。あの場所がどの世界のどの時点に重なっているのか、それはまだわからない。だが一つだけ確かなことがある。そこには――かつて誰かが、観測を続けていたという痕跡がある。
そのとき、奥の棚に置かれていたガルドの器具がほのかに震えた。五人は同時に立ち上がり、無言でそれを見つめる。器具の針がかすかに揺れ、短く一度だけ震えた。以前ならその針は北を指し続け、晴臣の胸に不穏な空白をつくった。今は違う。震えは短く、意味はもはや方角だけではなかった。針は止まり、そしてわずかに動いたように見えた。それはまるで、何かが向きを変える前触れのようだった。
晴臣は静かに息を吐く。「針がまた震えた。だが今回は一度だけだ。何かが、まだ答えを持っていない。北が指していたのは欠落の方向だとするなら、これはその欠けを埋めるための合図かもしれない」
「合図じゃなくても十分危険だ。準備をしよう」イオは短く言い、既に行動に移すような声色だった。彼の言葉には、戦場で磨かれた速さがある。だが晴臣はその場で手を上げ、静止させた。
「まずは、学校の代表と連盟の都市代表を呼ぼう。学生たちも行く。観測は学びの場だ。俺たちはもう一人の英雄を作るために行くんじゃない。共同観測の現場を持って行くんだ。現地で情報を分配して、各コミュニティが自分の判断を下せるようにする。それが前と違うところだ」
ナギは小さく息を弾ませた。「それならいい。あたしは走るよ。風を感じるなら全部伝える」
リゼットはすぐに送り出すべき名簿を頭に巡らせる。