ネオン街の探偵娘 第13話「第12章」
雨はまだやまない。ネオンの帳が街を覆い、看板の光が雨粒を裂いて流れる。ユイはその中を歩いた。胸の奥で、暗闇がじわじわと領域を広げているのを感じながら──それでも足は止まらなかった。手の中の名札の冷たさが、五分の猶予を思い出させる。誰かがそれを持てば、儀式は一歩進む。誰かがそれを掲示塔の配色に組み込めば、ミオの場所は確定してしまう。
雨はまだやまない。ネオンの帳が街を覆い、看板の光が雨粒を裂いて流れる。ユイはその中を歩いた。胸の奥で、暗闇がじわじわと領域を広げているのを感じながら──それでも足は止まらなかった。手の中の名札の冷たさが、五分の猶予を思い出させる。誰かがそれを持てば、儀式は一歩進む。誰かがそれを掲示塔の配色に組み込めば、ミオの場所は確定してしまう。
「こっちだ、左の通りを抜けて三叉路へ」光司が低く指示する。彼の声は濡れたレンガに吸われない。森下の大きな手が鞄を抱え、ルミは黒手帳をぎゅっと握りしめている。コトはまだ嗚咽で肩を震わせていたが、少しずつ落ち着きを取り戻していた。カナメが端末の画面を暗くし、チームの背後を覆う。
通りに差すネオンはいつもより鋭かった。ルクシアの配色制御が動き出している。遠くで、複数の看板がほぼ同時に色の階段を上がり下がりする。赤から青へ、青から黄へ。大量の光源が同期して変化するその光景は、街の皮膚がねじれるように不穏で、しかも確信に満ちていた。
「試験だ」カナメがつぶやいた。「広域配色。ルクシアのやつら、やる気だ」
ユイの目に、色の波紋が浮かぶ。それは彼女の力、「ネオンの裁」が言葉の嘘を視覚化する時の波紋とは似て非なるものだった。街全体が配色の実験場になっている。各看板が送り出す光の成分が、あちこちの会話を痕跡として照らす。ユイはゆっくり息を吸った。能力は看板の光を必要とする──だが今は彼女の負担が大きい。使うたびに夜間視力が削られる。短時間に何度も──それは賭けだ。
「お前がやるのか、ユイ?」光司の声に、微かな心配が混じる。
ユイは頷いた。「私が読む。囮にもなる。それで仲間を動かす。だけど一人ずつしか解析できない。順に行く、私が標的を作る」
光の下に立ったユイの瞳に、初めの波紋が走る。近くの広告塔の冷たい白光が彼女の顔を触る。彼女はその光を"借りて"、倉庫街での監視者の一人の言葉を追った。言葉は軽い──見知らぬ女について語る。だが波紋は浅く、淡い桃色を帯びている。小さな偽り。ユイはそれを摘み取り、仲間へひそやかに合図を送る。
「通路は確保できる。向こうの影が二人、出入口を見張ってる」ユイの声は低く、雨音とネオンに溶けるように発せられた。仲間は瞬時に位置を取り、ルミが入口に回り込む。ユイは次の光へ向けて移動する。だが、移動するたびに気圧が変わるような、脳の中の違和感が強くなる。小さなズキリとした痛みが前頭部に刺さり、視界の片隅が鈍る。暗所での視覚が、確実に後退しているのを知る。
「もっと強いやつを──」彼女は自分に言い聞かせる。時間はない。
ルクシアの広域配色が次の段階に入ると、街のネオンは一斉に補色の組み合わせを変え始めた。看板群が同じ曲線で振るえると、ユイの"針"は同時に何かに反応する。しかし能力は一度に一人しか解析できない。波紋は多数で美しく、だが彼女の目はその中でひとつを拾い上げるしかない。選択の重さがのしかかる。
そこに、運搬車両が音もなく滑り込んできた。ルクシアのロゴを仄暗く浮かび上がらせたベールがかかっている。荷台の中に光の格納庫。ユイの胸がぎゅっとなる。カナメの端末が音を立て、位置が確定される。ミオの居場所が、そこであると示された。だが車両はガードされた内部にあり、傍らには透明に近い防護シールドが張られている。ルクシアの「保護」──隔離だ。
「中は見えない。遮蔽されてる」カナメが吐き捨てるように言う。「だが、位置はそこだ。名札の磁刻を基準にした照合で――ああ、すでにシンクロが始まっている」
ユイは看板の光を次々に拾い、運搬車両の傍にいる男の言葉を読み解く。彼の声は低く、組織の命令を繰り返していた。波紋は濃い青の縁を帯び、中心に深い補色が差した。それは核心的な虚偽を示す。男は「被対象はもはや管理下にある」と繰り返しているが、その発言の色は嘘の密度を暴いていた。「保護」とは言いながら、波紋は何かを隠蔽する意図をはっきり示している。
「ミオは保護されている、だけど監禁されている。術式の一部として扱われてる」ユイの声がやけに遠く、かすかに震える。彼女はさらに光を当てて別の人間の言葉をなぞる。次の波紋は小さな飴色で、だが鋭い線が一本貫いている。計画は予定より早く進んでいる。名札の複製が彼らに位置決めをさせ、掲示塔の配色に組み込むプログラムが動き出しているのだ。
「時間を稼ぐしかない」「遮断回路を叩く」光司とカナメの声が重なる。森下は色補正器を取り出し、狭い光の束を作り出してユイの読み取りを補助した。彼の手先は職人のように速い。だがそれでも、ユイは一度に一つずつしか人の言葉を解析できない。ミオを救うためには、誰かが扉をこじ開け、物理的に中へ入る必要がある。だがその空間は既にルクシアの「封印」対象だ。電力と光の制御で守られている。
「俺が行く」カナメの声が冷たい。彼は端末を握りしめ、短い間に決意を纏った。過去に奪われた家族を思い出すとき、その鋭さは武器になる。ユイは目で止める。彼を失うわけにはいかない。だが、カナメが言葉を発する間、周囲の看板が小さく青く震えた。
「駄目だ、ここでカナメを失うわけにはいかない」ユイは叫びたくなる衝動を抑え、選択をする。自分が囮になる。彼女が看板の光の下に立ち、あえて目立つ嘘を暴いて注目を集めることで、仲間の一人が物理的に車両へ近づける時間を稼ぐ──その代償は、彼女自身の夜間視力のさらなる喪失だ。けれど今は賭けるしかない。
「任せて」ユイは短く言い、光の下で深呼吸をした。自分が嘘をつかないことを念頭に置き、決意を固める。禁忌は「自ら嘘をつくと能力が暴走して反転する」こと。自分の言葉の正直さを保ったまま、他者の虚偽をあばく。それが一つの芸当だ。
彼女はまず目の前の警備の若い男に光を向ける。彼は自信満々に「対象は適切に管理されている」と話している。ユイの視界に、鋭い補色の波紋が走った。真実を覆い隠す言葉の中心が、赤い条のように強く浮かぶ。ユイはその瞬間、言葉を繰り返すように声を出した。
「あなたはそれでいいと思ってるの? それが『保護』だと言い張れる?」彼女の問いは看板の光に乗り、男の耳に届いた。男の目が一瞬揺れ、周囲の注意がそちらへ向く。彼の言葉は動揺に染まり、二つの守り手が振り返る。その僅かな時間に、森下が金属製の工具でロック部分をはじく。ルミが暗所術の小さな手順を口にし、仲間をそっと導く。コトは小走りで運搬車両の裏へ回る。
ユイは次々と人の言葉を読んでいった。声を拾い、人を指名し、波紋の強弱を示して危険度を示す。だがそのたびに、脳裏に黒い霧がさしてくる。頭痛は増し、視界の暗がりが膨張する。夜間視力が削られていく――というより、暗闇の輪郭が確実に溶けていった。彼女は目を閉じたくなる衝動を何度も振り切った。ユイは灯守の記憶の断片が、胸を締め上げるように浮き上がるのを感じた。赤い刻印の幻影が視界の端に瞬く。記憶と現実が、薄いガラスを隔てて震えている。
「ユイ、あと二人だ」光司の声が背後から飛んだ。彼の手が肩を掴む。安心ではない。彼の掌の温度が、冷たいネオンから遠い人間の現実を思い出させる。
コトが裏に回った先