異世界転生星図師の皇帝 第2話「第1章」
砂漠の夜は、昼の熱を残したまま冷え始める。テントの腹から布が震え、焚き火の光が砂を短く伸ばす。レンは、火の片側に腰を下ろしたまま、今すぐにでも動きたかった。口惜しさが胸を突く。やらなければならないことが、足の裏に砂粒のようにまとわりついている。
砂漠の夜は、昼の熱を残したまま冷え始める。テントの腹から布が震え、焚き火の光が砂を短く伸ばす。レンは、火の片側に腰を下ろしたまま、今すぐにでも動きたかった。口惜しさが胸を突く。やらなければならないことが、足の裏に砂粒のようにまとわりついている。
「早くしてください、レンさん。夜明けまでに戻らないと、羊が迷ってしまうんです」
テントの入口に立つのはターリヤ。年齢は判然としないが目だけは明るく、砂塵をまとわせた顔に皺が深い。彼女の手は小さい子どものように震えているが、声は決して弱くない。尋ねに来たのは彼女の一つ違いの息子、カイムの一行だ。星門のきしむ音に驚いて尾行が乱れ、五十の羊と二十の人が夜のはてに身を置いてしまったという。
レンはポケットをまさぐり、手の中の小さな布袋を確かめる。そこに入っているのは、彼がこの世界で手に入れた唯一の「道具」だ。前世で使っていた説明用の棒の代わりにもなる木の棒。だが今はただの木切れにすぎない。頭の中には、プラネタリウムの暗幕をくぐり抜けた数えきれない星の解説が残っている。だが、ここでできるのは解説ではない。歩き、道を刻むことだけだ。
「僕は――皆と一緒に行きます。夜道を実際に歩かなければ、星図には刻めない。道を歩けば、帰り道に星が示す」
言葉を吐くと、ターリヤの目が一瞬、驚きと安堵で開かれる。彼女はレンが転生してきたばかりの時、他の者には言わないでくれと頼んでいた。だが今、目の前にいる人々は「助けを求めた者」だ。レンは自分の能力を闇に埋めるつもりはないと決めていた。守るべき相手が目の前で訴えているのに、黙る理由はない。
「本当に大丈夫なのか、若い星図師よ」
キャンプの外に立つ男が詰問する。カイムの仲間で、勇ましい顔立ちのアミールだ。彼は腕を組み、砂の上に鉄製の杖で円を描きながら言う。杖の先が描く円は、無意識のうちに「囲い」を想起させる。レンの胸が、そこに触れてひりつくようだった。
レンは息をのんだ。昔、誰かに聞かされた言葉が戻ってくる。──誰かの土地を勝手に線で囲むと、星が消える。そしてその代償は、僕の故郷の記憶が薄れることだ、と。
その代償の重さを、レンはまだ完全には理解していない。だが言葉の輪郭だけは知っている。記憶の喪失というのは、穴がぽっかり開くようなものだ。自分の名前の由来、幼い日の風景、母の手の匂い。そうした断片が、少しずつ冷たくなっていく。囲いを引くということは、誰かの地を固定することだ。固定された「所有」と引き換えに、星の一つが消え、彼の内の何かが削られる。
「囲いはしません」レンは静かに答えた。声が砂に溶けていくのを感じながら、彼は自分の指がわずかに震えているのを確かめた。夜の冷気が肌を刺す。ターリヤは頷き、アミールは目を細めたが、すぐに渋々ながらも了解の身振りをした。夜の道に出る人々は、自分の意思で選ぶ。仲間は道具ではない。彼らの決断が、これからの「歩行」を形作る。
暗くなるほどに、空は厚くなる。レンは空を見上げた。北にあるはずの一等星が、そこにはない。いつも人の方角を示すように燦然と輝くはずの北極星が、冷たい夜の黒に溶けていた。彼は、胸の中で違和感を抱いた。消えた北極星。それは、この地の何かが狂い始めている合図かもしれない。だが今は他にも優先することがある。
「灯を二つ、尖塔の方へ。子どもたちは真ん中を歩かせろ」カイムが指示を出す。素早く、夜道の段取りが決まっていく。レンは同行者たちをじっと見た。先頭のカイムと後ろを固めるアミール、それからターリヤ。みな自分の役割を自覚している。レンはただ一つ、自分に課された条件を思い出す――仲間が実際に歩いた夜道だけが、星図に「安全な帰路」として定着するのだ。
歩き始める。砂がふわりと、足を包む。夜の匂いは古い木と熱と金属を混ぜたようなものだ。空には雑然と星が散らばっている。レンは頭の中で、星の配置をつなぎ合わせる。プラネタリウムで培った星の見立てが、ここでは道しるべになる。彼は歩きながら、小さな呪いのようなことをつぶやいた。唱だったのか、独り言だったのか定かではないが、その声には決まったリズムがあった。足の裏の砂粒と同じ速さで、言葉が風にのる。
「右足、右足、左足、止まれ」レンはその順で自分の歩調を刻む。同行者たちも無言でそのリズムに合わせた。夜道とは、静けさを計る儀式でもある。歩くことで、誰かのための道が生まれる。レンは心の中で、空白の星図に一本の線を想う。だが彼はまだ線を書くことはできない。書けるのは、道を踏みしめた後に限られる。
途中、砂丘の縁に差し掛かったときだ。アミールが片手を上げて止まった。小さな光の点、遠方に揺れる焔のようなものが見える。カイムが呟いた。「あれは……あの門の残滓だ。星門が近い場所は、よく分からない位置に光が残ることがある」
星門。その響きがレンの胸をざわつかせる。移動するということ、動き続けるということ。星門は、この地にとっての危険と希望の両義を含んでいる。今夜そこに捕らわれている者はいない。しかし、星の移ろいは人の道をも変え、足跡の行く末を狂わせる。
「ここで合図を出す。ターリヤは後ろを見張っていてくれ」レンは自分の持ち場を確認した。彼は道の端に立ち、背を向ける者たちを見張る。仲間の歩行が、ただの行進で終わらないように。夜道を歩いたことが確かな「痕跡」として残るために、彼らはそれを意識して繋げていく必要があるのだ。
数時間が経った。夜の奥行きが薄くなり、風の音が少しだけ静まる。その間に彼らは、丘を越え、小さな谷を渡り、忘れられた石の矢印を二つ三つ見つけた。レンは歩行の合間に、頭の中の星図を一つひとつ確認する。どうしても思い出せない断片がある。幼いころの家の扉の色、母が作ってくれた甘い茶の香り。思い浮かべようとすると、指の先からそれらの記憶が薄れていくような感覚があった。だが今は、それを許していられない。
やがて、遠くに影が見えた。小さな焚き火の輪郭と、その周りに座る影。人々の声が断片的に届く。カイムが笑う。「来たぞ。羊たちもここにいる」 彼の顔には安堵が滲む。影の輪の中に、無事であることのしるしが見えてくると、レンはほっと息を吐いた。
到着してからが、彼の本当の仕事だ。夜道を歩いた記憶を、星図に定着させる作業。彼は小さな布を広げ、真っ暗な紙のような布の上に、さっき歩いた夜の配列を指の腹でなぞった。描写は儀礼にも見える。歩いてきた順に、星の位置と密度と角度を指でなぞっていく。すると、不思議なことに、布の織りが光を微かに反射し始める。そこに描かれた線は、確かな戻り道の印になった。
「見える?」ターリヤが尋ねる。彼女の目は信じたがっている。レンは頷いた。布の上の光は、ただの蛍光ではない。歩いた者たちの足跡が、星の配列と同期するように、布の中に道を浮かび上がらせる。これが彼の能力の核心だった。実際に夜に歩いた者たちの痕跡だけが、星図に「安全な帰路」として記される。空想や図上の線ではなく、肉体の運動が条件なのだ。
小さな一団は、レンが作った布を囲むようにして見入った。ターリヤが、涙をこらえつつ指先で光る線を撫でる。「これで、帰り