異世界転生帽子屋の公爵令嬢

異世界転生帽子屋の公爵令嬢 第13話「第12章」

会堂の木の床が軋んだ。リラは掌の汗を手前の帽子の縁に拭い、短く息を吐いた。今、彼女がなすべきことはただ一つだった。評議会の前で、印を持たぬ者たちが追放され、記憶から消されてきた証拠を突きつけること。守る対象はいつもと同じ──追放される子どもたち、声を奪われる若者たち、そして最初に助けを求めてきた一人一人。だが今回は「地域を変える」ための公の場だ。個別の救済だけでは届かない重さがそこにある。

会堂の木の床が軋んだ。リラは掌の汗を手前の帽子の縁に拭い、短く息を吐いた。今、彼女がなすべきことはただ一つだった。評議会の前で、印を持たぬ者たちが追放され、記憶から消されてきた証拠を突きつけること。守る対象はいつもと同じ──追放される子どもたち、声を奪われる若者たち、そして最初に助けを求めてきた一人一人。だが今回は「地域を変える」ための公の場だ。個別の救済だけでは届かない重さがそこにある。

「準備はいいかね、リラ?」と、セレーヌが小声で囁いた。教師の顔が震えるのが見えた。彼女は訴人のひとりとして証言台に立つ予定だ。リラは一歩後ろに下がり、肩越しに会堂の壇上を見た。評議会の長椅子には漆黒の礼服を纏った男たちが座り、前列には市民と役人、そして小さな子どもたちを連れた数人の保護者がぎっしりと詰まっている。重苦しい気配が空気を押しつぶしていた。

「リラ、お願い。あの肖像を」セレーヌの指が、彼女が腰に隠していた箱に触れた。箱の中には、先日ユゴーの屋敷で見つけた「顔のない肖像」の複写が入っている。縁に埋め込まれた古い硝子に、無表情の白い布を貼り付けたような顔が写っている。あの一枚が、記録が如何にして人を“無かったこと”にしてきたかを示す証拠になる。リラは箱を抱え替え、下着の裏に縫い込んだ星図の端を指先で触れた。裏地の星図は仲間たちの小さな合図にもなっている。だが今はただ、証拠としての肖像が要る。

彼女は帽子のことを考えた。自分で仕立てた帽子は「被る者が望む見られ方」を一日だけ世界に与える。子どもを「家族の子」として見せることも、恐れたまなざしを和らげることもできる。その力で、評議会の傲慢な目を曇らせ、市民の同情を引き出すことはできる。だが――。リラは顔の奥に冷たい岩が沈み込むのを感じた。ルールは変わらない。正体を偽るためだけに使うなら、帽子は人格を飲み込み、彼女は誰かの顔を思い出せなくなる。累積していけば忘却は深くなる。

壇上のライトが強く、評議員の影は短く鋭かった。公聴会というよりは審判に近い。本来ならば真実だけで勝負するべきだ。だが記録は歪められ、証言は押しつぶされている。セレーヌは訴えを噛みしめるように握った拳を解いた。

「リラ、君の帽子は?」セレーヌの問いに、リラは微かな笑みを浮かべた。「私は服を作る人間だ。でも今日は……証言を聞いてくれる人間を作る助けが必要なの」

それは言葉を濁す言い方だったが、セレーヌは頷いた。二人の間に流れる沈黙は、何度も試練を共にした絆を希望のように太らせた。後ろに控えるユゴーは、短い灰色の髭を逆立て、顎を掻く。エステルが小箱を抱えながら、低く「行ける」と囁く。

リラは帽子箱の蓋を静かに開けた。中には色とりどりの布、羽、裏地に縫い込んだ小さな星図。今日持ってきたのは、石墨で縁取りされた深藍のフェルト帽。裏地には彼女が最初に縫った星図が息を潜めている。見られ方を「勇気ある証言者」として設計しつつ、彼女はひとつの選択を迫られた。演出は演出でも、「正体を偽る」と評されかねない一線を越えるかどうか──それが忘却の代償をもたらすかどうかの分岐だった。

最初の証言者は小さな男の子、アレンだった。リラが保護した孤児の一人だ。彼はまだ文字をまともに読めず、評議会の前に立つこと自体が拷問に等しかった。だが彼は、あの無表情の肖像が示すように「印なき者が存在した」事実を知る生き証人であった。評議会は彼の言葉を鼻で嗤うだろう。リラは指先でフェルトの縁を撫でた。見られ方の設計は簡単だ。「穏やかで、親しみやすく、嘘がないように見える」。それだけでいい。だが一箇所、彼女は意図を硬くした。もし聴衆がアレンを「出自ある者」に見てしまえば、真実の重みは薄れる。ここで「正体の偽装」を行えば、帽子は忘却を奪い取る。リラは自らの胸の中に言葉を落とした。

「私は──」と、彼女は自分に向かって言った。「忘れるのかもしれない。でも、もし目の前のこの子が救われるなら……私の顔の一つや二つ、疑いようもない」

セレーヌが声を詰まらせた。ユゴーは顎を強く締める。仲間たちが彼女の決意を知ったとき、どのような顔をするかをリラは想像した。信頼の重さが、彼女の喉を締める。だが時は待ってはくれない。壇上の空気が変わり、司会者が口を開いた。

「次の証人、アレン・タヴァン。証言を始めよ」

アレンは震える足で歩み寄る。手にした紙切れが小さく震え、会場のざわめきが静まる。リラは軽く帽子をアレンの頭に置いた。触れた瞬間、裏地の星図が温い光を発したように見えたのは気の所為かもしれない。だが変化は確かに起きた。アレンの姿は壇上の灯に映えて、どこか凛としたものへと整えられた。彼の目が澄み、声が震えなくなる。周囲の視線が彼に寄り、評議員の一人が眉をひそめる。

「僕は……僕は店の前で寝ていた。印を見せろと言われて、できなかった。連れていかれた人がいた。白い紙を顔に当てられて──そのときの肖像、あの顔のない絵……」アレンの言葉が会堂に落ちていく。誰もが息を呑んだ。

続く証人たちにも同じように帽子が使われた。疲れた母は「母性」として、昔の工女は「誠実さ」として、老いた鍛冶屋は「責任感」として見られた。リラは一つ一つの「見られ方」を慎重に織りあげた。偽るのではない、という言い分は彼女の心中にあった。彼らが望むのは、瞬間だけでも人を見る視線の変化だ。だが評議会側はそれを「演出」と見做すだろう。演出は裏切りとなり、帽子の代償を呼ぶ。

壇上で口火を切ったセレーヌの番が来たとき、リラは自分の手の震えを抑えられなかった。彼女は帽子に触れていない。セレーヌは自らの言葉で語る。そこには教師としての怒りと、教室で見た子どもたちの目の光があった。だが前の証言者たちの印象が会場の空気を変えた。市民の頬に涙が流れ、評議員の一角からは不快の咳が漏れた。

最後に、リラは箱の中から複写を取り出し、壇に据えた。あの「顔のない肖像」である。会堂全体が息を呑む。評議会の一人が顔を顰め、ちらりと席を見回した。肖像の白い無表情が、古い行政文書や押収された記録と繋がっているとセレーヌは静かに説明した。記録には、人を無かったことにする技術がずっと利用されてきたと。

議事録と証言が重なり合って、初めて全体像が浮かんだ。ユゴーが証言者として述べた、式典での顔の隠蔽。エステルが持ってきた買い付け帳に書かれた、子どもの名前が白く塗りつぶされていたこと。小さな嘘や誤魔化しが積み上がって、制度は人の顔を差し出すことを強制し、持たぬ者を消し去ってきた。壇上の空気は重く、しかし確実に変わっていった。

だが行為の代償は、すぐに現れた。証言が終わり、会堂の外に出た瞬間、リラは腕を摑まれた。セレーヌの手だ。彼女の顔が近くなる。リラは本能で視線を向けたが、そこで見つけたのは、目の前にあるはずの顔が遠く霞んでしまったという感覚だった。輪郭はわかる。髪の色も、笑い癖も頭に浮かぶ。しかし――顔がつながらない。目と鼻と口の配置が、ふっと消えかける。名前はわかる、声も聞き慣れている。だが目を合わせたときに現れる「その人だけの顔」が、手の届かないところへ滑り落ちた。

「リラ?」セレーヌの声が心配