異世界転生石鹸工の王宮侍女 第13話「第12章」
空は薄くすりガラスのように曇り、広場の石畳は昨日までの雨で黒く光っていた。マコトは冷えた空気を肺に吸い込み、腰にぶら下げた小さな鍋をぎゅっと抱えた。鍋の中はまだ温かく、彼女が昨夜から煮続けた石鹸がゆらりと揺れている。手袋はしていない。包帯の跡がもう一本、手首に巻かれているのが見えた。
空は薄くすりガラスのように曇り、広場の石畳は昨日までの雨で黒く光っていた。マコトは冷えた空気を肺に吸い込み、腰にぶら下げた小さな鍋をぎゅっと抱えた。鍋の中はまだ温かく、彼女が昨夜から煮続けた石鹸がゆらりと揺れている。手袋はしていない。包帯の跡がもう一本、手首に巻かれているのが見えた。
「さあ、始めるわよ」隣に立つ侍女のサヤが低く囁く。彼女もまた、表情は硬いが目だけは静かに支えている。サヤは王宮の洗濯場でマコトと共に働く一人で、石鹸の原料を運び、子どもたちに簡単な手洗いを教えてくれた。今日の場には、鉱山町から来た親子、代表の男、数名の見物人と、王宮側から送り込まれた一団が混じっていた。王宮侍医の影も見える。彼は黒い外套を翻し、表情を張り付かせてこちらを見ている。
「あなた、本当にやるのね」子どもたちの一人、薄汚れた手を差し出している少女が、マコトをじっと見上げた。彼女の目は不思議に透き通っていた。マコトは小さく頷き、鍋のふちを押さえながら返事をした。
「洗う。あなたたちの手を、ちゃんと洗う。痛いなら教えて。無理はさせないからね」
彼女の声はいつものように穏やかだったが、内側には決意の火があった。守る対象は明確だ。鉱山町の子どもたち──その小さな掌には、病の種とも何ともつかない黒い付着物が隠れている。王宮はそれを「神罰」と呼び、触れることを禁じ、子どもたちを屋内に隔離した。だが子どもたちは外に出されず、働くことも許されず、汚れを洗えないまま衰弱していった。マコトはそれが病ではなく、きちんと洗えば軽く済むはずの汚染だと知っている。前の手洗いで救えた子の顔が、今でも彼女の胸に残っている。
「石鹸は、あなたが煮たものだけが……」サヤが言葉を濁したのは、能力の条件を確認するためではなくて、ただの確認だった。マコトは小さく笑って、短く首を振る。
「そう。私が煮た石鹸でないと現れない。私の手で泡が返る。それが私のやり方よ」
その一言で、場の空気が静かに震えた。王宮側からはくすんだ声が上がる。侍医が前へ詰め寄る。
「マコトよ。公の場でそんな──不穏な術を振るうつもりか。検証されていない奇術だ。人に触れれば、害が拡散する可能性もある」
侍医の声は低くて強かった。彼は権威の言葉で人々を萎縮させるのが巧みだった。だが、既にここにいる人々の大半は、あの日から少しずつ始まった小さな変化を見ている。屋外で簡単な手洗いが定着し、子どもが一人、また一人と笑顔を取り戻していった。その事実を無視するために侍医は手段を選ばなかった。
マコトは石鹸の鍋の蓋を外し、泡立つ白濁した液体をゆっくりかき混ぜる。手の震えはない。彼女は自分の能力のルールを、いつでも自分に言い聞かせていた。自分で煮た石鹸が触れたものに残る「害意の汚れ」だけを泡として可視化する。汚れが本当に害なら、泡は現れ、泡を取り去ればその部分は楽になる。だがもし無実の人を疑って洗ってしまえば、泡は彼女の手を焼き、汚れそのものは消せない──そういう代償が必ず伴う。以前に味わった小さな火傷は教訓であり、ここで失敗は許されなかった。
最初の子どもが、マコトの前に膝をついた。小さな手は鉱山の油と黒土に染まっている。母親は震える手で娘の背に触れ、「お願い……」とだけ言った。マコトは頷き、素手で鍋の中から石鹸をすくう。温かい泡が彼女の掌に乗り、わずかに甘い匂いを放った。ここで重要なのは、石鹸が「私が煮た」ものであること。誰か別が作ったものでは決してこうはならない。
マコトは子の手を取って、指の間に泡を押し込む。泡は静かに広がり、やがて黒い影を伴って表面に浮かび上がった。黒い泡は小さな虫のように弾き、真珠のように乾いた光沢を持っていた。それは単なる泥ではない。泡は震え、ほのかな音を立てる。群がった泡は互いにすいつき、やがて指先を覆った。
「見える……」母親の声が震え、正面にいた男が身を乗り出す。誰もが言葉を失う。ただ、その黒い泡を見ていた。マコトは息を止めて、泡を指でつかみゆっくりと摘み取った。泡は音を立てて弾け、そこにあったわずかな粘りと共に手から離れた。泡の跡を指でこすると、子の肌は少し赤みを帯び、呼吸が浅くなっていたが、みるみる表情が緩んでいった。手の汚れは消え、子は小さく笑った。
拍手は起きなかった。だが囁きが広がる。驚き、安堵、疑念。それらが交じり合って空気を満たした。侍医の表情は張りついたままだったが、唇の端に新しい怒りが見える。彼はすぐに前に出て、冷たい声で言った。
「それは……幻の泡かもしれぬ。検証なき行為は危険だ。すぐにやめよ」
「危険じゃない。彼女の手が救ったんだ」代表の男──鉱山の労働者の一人で、先日から衛生の導入を支持していたガンペイが声を張った。彼の顔には疲労が深く刻まれているが、目だけは真っ直ぐである。「王宮は何もしてくれなかった。マコトさんは実際に子をよくした」
侍医は歯を鳴らした。彼は手を上げて、王宮の従者たちに合図を送る。従者と見える幾人かの人影が重く動き、広場の端に立ちふさがる。場は一気に緊張した。
マコトは次の子に向き直った。小さな体に触れるたび、泡が現れるかどうかを見極める。泡が現れるとき、彼女の手は熱を感じた。火傷は小さな徒労ではない──痛みは刃のように鋭く、だが必要なら耐えねばならない。これまでも彼女は数度、石鹸の泡に手を焼かれてきた。表皮は薄く剥がれ、跡が残った。だが今日はこれまでと違い、子どもが並んでいる。数は多い。マコトは分かっていた。連続して多くを洗えば、手に受ける負担は蓄積し、やがて耐えられなくなる。だが公の場で示すこと以外に、王宮の言葉を覆す道はなかった。
三人目、四人目と洗ううちに、マコトの左手の指先に違和感が走った。最初は単なるじんわりとした熱だったが、ほぼ同時に鋭い痛みが走り、皮膚が熱でつままれるように感じた。泡が弾けるたびにその痛みは増していく。彼女は一瞬、目を閉じそうになったが、子どもの顔を見ると笑っている。それが、彼女にとっての拠り所だった。
「マコトさん、大丈夫ですか?」サヤがすぐに手を伸ばした。だがマコトは首を振り、右手で左の指を押さえ込む。
「今は、もう少し。順番が来るまで待って」声は絞り出すようだった。彼女は次の一人に手を伸ばし、泡をすくって指に塗り込んだ。泡は反応し、黒い粒子が集まって筋となり、泡の塊が手のひらにまとわりつく。泡を剥がすとき、熱が直接皮膚に触れ、両手の指先に強烈な疼きが走った。痛みは頭の中で波紋を描き、体全体を揺らした。だが子どもの顔色は確実に良くなっている。
「やめさせろ!」侍医がついに声を荒げた。彼は高慢に胸を張り、侍衛を呼び寄せる。だが民衆の中に動揺が広がっていた。ささやきはもう疑念から支持へと変わりはじめている。
「こいつは術だ。触れるなと言っている」侍医は言葉を続け、手早く何かを取り出してみせた──それは古い巻物に見えた。彼はそれを掲げ、神聖を唱えるような口調で喋る。「王冠の戒律に従い、神罰と判断した者には触れてはならぬ。これは国の秩序だ。あなた方は秩序を乱すのか」
その言葉に、いくばくかの人が眉をひそめた。神罰という概念は深く根付いて