異世界転生城壁番の聖騎士 第9話「第8章」
火は、煙草の不始末でも放火でもなかった。市場の北側、乾いた屋台の布に飛び移った油が風に乗り、乾いた木の庇に燃え移ったのだ。夜明け前の薄明の中で、炎はいつもより速く、笑うように舌を伸ばしていた。人々の寝息を引き裂くような鋭い匂いが北門一帯を満たし、あっという間に群衆が目を覚ます。
火は、煙草の不始末でも放火でもなかった。市場の北側、乾いた屋台の布に飛び移った油が風に乗り、乾いた木の庇に燃え移ったのだ。夜明け前の薄明の中で、炎はいつもより速く、笑うように舌を伸ばしていた。人々の寝息を引き裂くような鋭い匂いが北門一帯を満たし、あっという間に群衆が目を覚ます。
「門を開けるな! 王都が命じている、危険な者を入れるな!」
門司令の声が、火の音と人の悲鳴の上で何倍にも響いた。鋲の打ち付けられた板扉の向こう、堅牢な鉄輪を持つ門の重々しい影が、命令と恐怖の象徴として立っている。門司令の横顔はいつも冷たく、今夜はそれが更に硬直していた。命令に従う兵士たちが門の前に列を作り、背中に白帆布を縛られた「通行不可」の札を掲げた。
トウマは煙と人混みの中に立っていた。北門の東側を覆う石垣に手をつき、呼吸を整えながら、目の前を流れる光景を素早く計測する。自分が今したいこと――誰も残さず内側に案内し、必要なら壁を超えてでも救い出すこと。妨げは燃え盛る屋根、尻込みする守備兵、そして門司令の命令だ。守る対象は、前夜に手渡した粗末な布を握り締める母親アヤと、彼女の息子コウ、火に包まれた屋台の裏で震えている職人たち、そして自分が一番最初に助けの手を差し伸べた人々――名前はあるが、今はただ助けを求める声の束だ。
「トウマ! ここは危ない、離れろ!」と、ミラが煙の中から手を伸ばした。彼女は包帯を腰に帯びた若い女医で、今は手袋と水袋を抱えている。彼女の目は真剣で、自分の判断を崩さない。隣には、腕に古い鉄鎧を巻いた職人ハレンが、燃えさかる梁を素手で押しのけようとしていた。彼らは自分の意志で動く仲間だ。命令に従わず、でも自分勝手でもない。
「門が閉まったら、助からない人が出る」トウマは低く言った。「ここを抜ける道を作る。俺の足場を使うんだ」
「でも司令に見つかったら……」ミラが息を呑む。ハレンが石を抱えて背後を見返す。叫び声が一つ、二つ、三つと増え、群集は押し合いへと変わる。矢印の描かれた古い木札が、風でぶら下がり、内側へ向く矢印が炎を受けて揺れていた。矢印はいつもより鮮明に、門の方角を示している。人間の足は慌ててその矢印に従う。誰かが作業の手順を思い出すように、内側へ進むことを選ぶ。
トウマは自分の胸に何かがぐっと詰まるのを感じた。矢印が、ここを通すべき者と通すべきでない者を無言に決めるように使われていたのを、以前から疑っていた。だが今は、疑いを証明する暇がない。火が屋台の奥で裂け、子どもの泣き声が高くなる。煙に飲まれそうな人々の足元に、どうしても石の足場を作らねばならない。
ルールはいつも通り、冷ややかに、そして残酷に待っている。自分が本日見回った壁――今朝の巡回で自分が触れ、視線を通した北門のこの区間だけが、自分の能力の範囲だ。能力は対象の「危険を感じた者の足元」にしか発動しない。しかも――もし自分が誰を救うかを選び、敵味方と故意に分けたら、城壁は内側から崩れ、その痛みが自分に跳ね返る。選ぶという行為が、壁と自分を切り裂くのだ。
トウマは目を閉じ、一呼吸。意識を自分から引き離す。誰か一人を選ぶ想像を、抑える。目の前にいるすべての息遣いを、危険として感じ取ろうとする。母アヤの慌てた心拍、コウの靴紐を踏んでいる足の震え、職人たちの決死の足取り、守備兵の驚きと躊躇。危険は、ひとつの点ではなく、ここに存在するすべての点の集合だ。選ぶことはしない。差別しない、とただ決める。
それができたのは、訓練というよりも習慣の賜物だった。前世の見回りで、同時に複数の危険を読む癖が身についていたからだ。だがここでの代償は、物理的に大きく返ってくる。トウマが自分の心の視界を「全員」に向けると、石が生まれる準備を始めた。まず足の先に、ひんやりした感触が広がる。靴の裏に触れると、石の冷たさが伝わる。そこから波紋のように、群衆の足元へと小さな台座が次々に生まれた。
「なんだこれ!」だれかの叫びとともに、焼け焦げた木の上にぽつりぽつりと灰色の石の足場が現れた。最初は片手に収まる小石だった。それが連なり、やがて小さな階段のような列になり、裂け目を埋め、滑る屋台の梁の代わりに人々を受け止め始める。裸足の者には冷たく、靴の人には堅く。石は一時的なものだと誰もが知っているけれど、その一瞬が命を救う。
ミラは涙を流しながら母アヤを引いていく。ハレンは自分の持つ板切れで、危険な梁を押しやりながら、石の列を人々の手で踏み固めさせる。守備兵の一人が、命令を思い出すかのように門の方を睨むが、目の前で子どもが足場を掴んでいるのを見て、呆然と手を下ろす。群衆は石に導かれるようにして、バラバラの足取りから秩序を取り戻していく。
けれど、石が生まれるたびに、トウマの身体には違和感が刺すように返ってきた。それは痛みと言うよりも、鋭い刺し傷の連続で、背中の中心から骨までなにかが裂けるような苦しみだ。最初は小さく、だが数が増えるにつれて、その痛みはひとしきり大きくなる。石が一個生まれるごとに、壁の内側で筋が断裂するような音が耳に届く。目を開ければ、早朝に静かだった石垣の一部に細い亀裂が入っているのが見えた。白い粉が落ちる。内側の石が微かにずれる。
「トウマ!」ミラの声が鋭くなる。トウマはその声に支えられて、煙の中を見渡す。足場は間に合っている。子どもたちが泣き止み、母親たちは声をあげて子を引く。職人たちは自分の道具を捨て、石の台に手を添えて人を助ける。だが同時に、門の内側で石片が崩れ落ち、砂のように落ちる音が線を描いた。トウマの胸は針で突かれるように痛む。かすかな吐き気が襲い、耳鳴りがして視界の端が白んだ。
「やめろ、トウマ!」ハレンが手をかける。ハレンは自分の腕でトウマを支えようとしたが、トウマは振りほどくように首を横に振った。これは止められない。止めたら人が死ぬ。選んでしまえば壁が崩れると知っているが、選ばないことの代償はその場の全員を救うための痛みだ。トウマは自分の痛みを、誰かが代わりに背負うことはできないと知っている。
石の列が長くなり、流れるように人を外側へと導いた。炎は屋台の骨組みに沿って熱を放ち、ところどころで天蓋が落ちる音が鋭く響く。煙は人の群れを包み、吐き捨てるような嗚咽がそこかしこで起きる。トウマは石を生ませ続け、だがその回数を数える余裕はなかった。意識はほとんど一点に集中し、目の前の危険だけを追っていた。
ふと、矢印が振動の中で変に目に入ってきた。内側に向く矢印の木札が、焼け焦げた光の中で不気味に先を示している。だが矢印の先にあったはずの通路は、火に囲まれ、行き場を失った人々を一つに集めていただけだった。矢印は、誰かがここへ導くために付け直したように見えた。わざわざ内側へ向けられた矢印が、群集を門に押し付ける。その意図性が、皮膚の下の寒気としてトウマに走った。
「見ろ、あれは……」誰かが、矢印を指さす。門司令の顔が冷たく歪む。彼は炎から目を逸らさず、だが手元の書付を開いている。紙の上で何かをなぞる指の動きが見える。誰かに命じるのだ、とトウマは直観した。矢印は単なる道しるべではない。人を集め、選別し、結果的に門が人