異世界転生城壁番の聖騎士 第27話「第二部幕間」
朝靄の残る北壁の径を、トウマはゆっくりと歩いていた。包帯の隙間から冷たい空気がしみこみ、歩幅を小さくしても右脚にじんとした痛みが走る。彼のしていることは、ただ壁を見回ることだ。ただ、それだけがこの場所で彼に許された、そしてこの場所を変えるためにどうしても続けなければならない仕事だった。
朝靄の残る北壁の径を、トウマはゆっくりと歩いていた。包帯の隙間から冷たい空気がしみこみ、歩幅を小さくしても右脚にじんとした痛みが走る。彼のしていることは、ただ壁を見回ることだ。ただ、それだけがこの場所で彼に許された、そしてこの場所を変えるためにどうしても続けなければならない仕事だった。
「今日は第三節まで行ってね。小門側のきしみ、職人が言ってた通りだよ」と、隣に立つアルヤが声をかける。アルヤは避難民の代表で、癖のある手つきで記録帳を握っていた。彼女の目は眠らせない決意そのものだ。トウマはうなずき、壁の石に手を触れて確かめる。石の冷たさが指先を返してきて、そこに刻まれた年輪のような傷痕を読む。
「見回りの輪を広げたい。俺だけじゃなくて、皆が壁を歩けるようにしたいんだ。毎日誰かが見て、足場を作る権利が偏らないように」とトウマは低く言った。言葉は静かだが、そこに含まれた意志は鋭かった。アルヤは一瞬考え込んでからにやりと笑い、「それなら私たちの若者を訓練しよう。職人も、看守も、避難民も。全員が短い巡回をできるように」と応えた。
「ただし条件がある」とトウマは続ける。「俺の能力は……毎日俺が見回したこの壁だけにしか働かない。しかも――選んだりすると壁が内側から崩れる。そして、俺が痛むんだ。だから、誰か一人を選んで助けるようなやり方はできない」
その言葉で石の隙間を渡る風が一拍の間を作った。隣にいた職人のミナが眉を寄せる。「つまり、トウマさんが歩いてない所には足場が出ないのね?」
「そうだ。だから巡回の輪を作る。誰がどの区間を歩くか、日誌をつけて刻んで。見る人が多ければ、より広く、より頻繁に足場が『出る』可能性が高くなる」トウマは説明し、杖代わりの木を壁に突いて体を支えた。壁の上に古い矢印の標識が、まだ内側を向いてぶら下がっている。その矢印は、いままで人を閉じ込めてきた記号だった。トウマはその矢印を見て、指先で触れたまま言った。「あれは…書き換えよう。指示じゃなくて、合図に。外に向けるんだ」
議論は長引いた。職人は補修の順序と資材の割り当てを問題にし、看守の一部は外部からの圧力を恐れ、避難民の中にはまだ王都の報復を恐れて参加を躊躇う者もいる。だが、トウマは一つずつ手をとって説いた。彼は自分の能力を独占の道具にはしない。能力の制約そのものを制度に刻むことで、誰か一人の救いが全体の破壊につながらないようにする。誰もが見回る、誰もが記録する、それが最初のルールだ。
「見回りの名簿を作る。毎朝、壁のどの辺りを歩いたかを印すんだ。小門の鍵は共同のもの、誰かが持ち去れないように複数で管理する。記録は二重に。紙と壺に。口伝も忘れない」トウマは紙を手渡され、震える手で日付を書き込んだ。痛みが指先から反射して胸に走る。深呼吸をすると、傷が重く言い返すようにずきりと痛んだ。
訓練は、まず小さな動作から始まった。若者たちは重い長靴ではなく、素足に近い状態で壁を歩く練習をした。石の目地を読む訓練、風の向きで音を聞き分ける訓練、そして最も重要な「危険を感じたときにどう合図するか」の訓練だ。トウマは教えた。彼が当日その壁を見回していれば、誰かが本当に危険を感じた瞬間、その人の足元に石の足場が一時的に生まれる。「選ばないこと」を徹底するため、合図は全員一斉に出すようにした。声をあげる、赤い布を掲げる、太鼓を鳴らす。誰か一人だけが助かるような状況を作らせないためだ。
初めての実践は緊張と笑いが混ざった。アルヤが合図を出す役を買って出て、大きく赤い布を振った。一瞬の間をおいて、彼らの足元に細い石の列が現れた。ひんやりとした感触が足裏を満たす。若者たちは驚いて声をあげ、控えていた職人が歓声を上げた。トウマは震える手でその光景を見守る。成功だ。しかし、成功はすぐに重くのしかかった。
訓練の合間に、崩れかけた外壁の修繕をしていた職人の足場が急に外れ、下の通路にいた子供が石の下敷きになりかけた。悲鳴が上がった。トウマは反射的に走り出す。膝がぎくりと鳴り、包帯が擦れて痛みが刺す。子供の顔は恐怖で歪んでいた。そこにあるのは「助けたい」という単純な衝動だけだった。
慌てて、トウマは一つの思考に囚われた。あの子だけを――あの子だけを救えばいい、と。手のひらが空中でまさに選別をする形にぎゅっと収縮した。自分でもわかる。これは禁忌だ。だが、子供の目が命乞いのようにこちらを見返すと、思考は制御を失い、口の中で血の味がした。
「そこに!」トウマの声は震え、彼はその子の足元に石の列を願った。意思は選んだ一人へと向けられた。
次の瞬間、壁が鳴った。内側から、低く、嫌なひび割れの音がした。石の目地が弾けるようにずれ、塵が舞って小さな崩落が起きる。トウマの背中に冷たい痛みが走り、体の中に何かが引き裂かれるような感覚が広がった。彼は地面に膝をつき、グロテスクなまでに壁の痛みが自分のそれに重なって押し寄せるのを感じた。喉を何かが締め付ける。周囲の声が遠くなる。
「やめろ、トウマ!」アルヤの叫び。職人たちが石を支えて子供を引き上げようとする。若者たちが必死にロープを投げる。しかし、崩れた部分は内側へと割れ、通路をふさいだ。選んだことの代償だった。トウマは唸り声を漏らし、顔を手で覆った。痛みは肉体だけでなく、彼の胸の奥にある何かを抉った。自分の意志で「選ぶ」ことは、壁を裏切ることだと、肌が痛みで覚えさせている。
救助は職人たちの腕と、慌てたが的確な連携によって成し遂げられた。子供は傷を負ったが命はあった。だが、崩れた場所はそのまま残り、壁の内側に新たな裂け目が出来た。人々は石に触れ、修繕の順序を相談し始めた。トウマは膝の上で小さく震え、藁の上に座らされたまま、申し訳なさと覚悟の入り混じった呻きを漏らした。
「俺がやったんだ。選んだんだ」トウマは声を振り絞って言った。痛みが言葉を押し出す。視線は誰にも向けられなかったが、アルヤは黙って彼の手を取った。「あなたは悪くない。選びたくなったのは当たり前よ。だって…」彼女の声が切れた。言葉を続ける代わりに、彼女は近くの職人に向かって指示を出した。「これをきちんと治す。記録を残す。ここに何が起こったか、誰が助けたか。全部、忘れないで」
その日の夕方、皆で集まって穴を埋め、崩落箇所の補強計画を立てた。壊れた石の一片が──ひび割れた門章の断片と思われる、黒い金属の薄片が見つかり、トウマはそれをそっと拾い上げた。片手で持つには小さく、冷たい。過去を示す証拠だ。しかし今はそれ以上に、選ぶことの代償を示す生々しい印だった。アルヤはその断片を布に包み、壺に入れて埋蔵用の箱にそっと収めた。「これは記念にする。教訓として」と彼女は言った。トウマは否やの言葉を飲み込んだ。
数日の療養が続いた。トウマは体の痛みとともに、見回りの仕事を少しずつ仲間たちに委ねる方法を考えた。自分一人の正義は危険だ。誰もが見回れ、誰もが記録を持ち、誰もが「合図の仕方」を知っている。彼は見張りの輪を正式な手順にすることを宣言した。朝の巡回、昼の点検、夕方の検分。巡回した人間が印をつける印記石を作り、それを見れば誰がどの区間を歩いたかが一目でわ