異世界転生氷菓子師の辺境伯 第13話「第12章」
レナは雪を踏む音よりも先に、自分の心臓の音を聞いた。震える鼓動が、指先の冷たさとせりあがる熱風の匂いの間で混ざり合う。彼女が今したいことは一つ、子どもたちを守ることだった。目の前には小さな列。赤い帽子をかぶった子、着物の裾を引きずる妹、鼻をすすりながらも列に並ぶ兄——みんな、今日は果物を手渡すためにやってきていた。
レナは雪を踏む音よりも先に、自分の心臓の音を聞いた。震える鼓動が、指先の冷たさとせりあがる熱風の匂いの間で混ざり合う。彼女が今したいことは一つ、子どもたちを守ることだった。目の前には小さな列。赤い帽子をかぶった子、着物の裾を引きずる妹、鼻をすすりながらも列に並ぶ兄——みんな、今日は果物を手渡すためにやってきていた。
「レナおねえちゃん、リンゴ……」端に立つトーラが、ぱんぱんに太った林檎を差し出す。トーラはレナの見習い仲間で、菓子の配り方を学ぶのと同時に、村の子どもたちを取りまとめている。彼女の目つきは真剣そのものだ。後ろではアルクが見回りの物陰から視線を投げ、巡回隊の足音に神経をとがらせている。
「ありがとう。そっと、こっちに渡してくれる?」レナは声を潜める。能力は条件を必要とした──他人が自分に分け与えた果実の甘みだけを凍らせられる。自分で盗み取った果実では効かない。だから、子どもたちが自ら差し出してくれることが不可欠だった。差し出されたことが、技術の承認にも似ている。
列が詰まり、次々と果物がレナの前に置かれた。青リンゴ、すっぱく赤いベリー、少し傷のある梨。誰もが小さな希望を手のひらに乗せている。彼女は果実を片手で抱え、もう一方の手のひらを近づけた。掌にほのかな温かさが残る。レナは息を吸って、いつも通りに口の中で甘みを思い出すようにして、果実の「中心の甘さ」を探った。条件はいつも同じだ。味を分けてくれたその意思を、自分の感覚で受け止めること。
ゆっ、と冷気が立ち上った。掌の内で甘さが結晶になっていく感触は、素朴な菓子箱を開けたときのように清冽だ。しかし今のそれは人の息を吸って吐くように、熱と腐敗の匂いを引き寄せ、封じ込める。レナの指先から小さな氷華が生まれ、果実の甘みは瞬間、透明な氷に閉じ込められた。彼女は手際よく、それを小さな紙に包み、子どもに渡す。
「はい、噛んでごらん。じきに楽になるから」レナの声は震えていた。内心の不安は大きい。能力は短時間だけ熱と腐敗を吸い取る。効果が切れる前に、熱風の影響を弱めるためにもっと多くの子どもに行き渡らせねばならない。配る量とタイミングがすべてだ。
紙包みを受け取った子どもは、半信半疑で小さな氷菓を口に入れた。頬が少し赤らみ、咳が一つ、二つとおさまっていく。アルクが静かに息をつく。だが、列の向こうで鋭い足音が近づいてきた。摂政の巡回隊だ。雪道に鉄靴が打ちつけられる音は、秩序と規制を告げる鐘のように、村の空気を締め付ける。
「分散させろ。大勢で集まるなと摂政の布告にある」隊長が号令をかける。制服の裾には辺境伯の紋章が光り、彼らの存在は単なる抑圧だけでなく、感染の恐れを理由にした管理の象徴だった。巡回隊は配給や移動を監視し、空の水瓶や配給カードを用いて人々の行動を縛り始めている。ここで大規模な配布を続ければ、隊に目をつけられ、氷菓は押収されてしまうかもしれない。
「隠れて」トーラが小声で言う。だがレナは首を振る。隠れてしまえば、子どもたちはその場で熱風にさらされたままだ。彼女は見つかるリスクを引き受けることを選んだ。命を優先する瞬間だった。
「アルク、あの路地に子どもを回して。僕たちはここで残す」レナが指示を下す。アルクは驚くほど速い。彼の体躯は大きく、素早く子どもたちを誘導して見えない場所へと分散させる。トーラはふるえながらも配る手を止めない。彼女たちの動きに、村人たちも応えて果物を差し出す。誰もが、これがただの菓子ではないことを知っている。だから手渡すのだ。
巡回隊が近づく。隊長の眼差しがレナを捉えたのは、配布が終わる寸前だった。隊長は叫んだ。「ここでの臨時配給は許されない! まずは検査だ!」彼の部下が前に出て、周囲の人々を押しのけるようにして囲い始める。子どもたちの列が一瞬ざわめく。氷菓を口にした子の顔が安堵でゆるむ一方、隊員の影がそれを脅かす。
「レナ、やめろ。見つかったら全員が罰される」トーラの手が震える。レナは答えず、ただ一歩前に出た。冷たい空気が彼女の肺に入る。これまで以上に多くの果物を受け取らねばならない。村中の保存食倉から持ってきた果物箱が、アルクの肩にのしかかるように積まれている。
彼女は次々と果物を受け取り、凍らせては渡す。氷菓の小さな結晶が雪のきらめきのように舞い、口に含んだ瞬間に体内の熱が引かれていく。子どもたちの呼吸が整い、咳が止まり、目の表情が戻る。周りに立つ大人の涙が、耳まで冷えた頬を伝って落ちる。沈痛な安堵。レナの手の中で、温もりが熱風の腐敗と置き換わっていく。
しかし代償は確実に、そして容赦なく襲ってきた。奪った熱は彼女の体温を下げる。数十個の果実を凍らせるたびに、体が重くなり、指先の感覚が薄れていく。最初は震え程度だったものが、舌を噛むほどの寒気へと変わる。呼吸が浅くなり、唇が蒼白に近づいた。誰かが彼女の肩を抱き寄せるが、その感触さえも遠く感じられる。
「大丈夫か、レナ!」アルクが叫ぶ。彼は彼女の作業を代わろうと前に出るが、レナは振り向かない。目は冷静そのものだが、そこにあったはずの柔らかな光が薄れている。長く笑ったり驚いたりしたときに見せる、彼女の特徴的な屈託のない表情が、少しずつ鈍くなっていた。
配布が終わる直前、隊長が手を挙げた瞬間、レナは最後の一個を受け取った。果物を受け取りながら、彼女は思った。条件は守られた。果実は人々の意思によって手渡された。独り占めはしていない。だが、短時間で大量の熱を奪うことは可能か、という問いには答えがなかった。能力には「短時間しか吸えない」という限界がある。継続的な暴露に対しては、根治ではなく一時しのぎでしかない。
最後の氷菓を紙に包み、トーラに手渡した瞬間、全身の冷えが一気に襲った。彼女は膝をつき、雪の上に座り込む。胸の底から震えが出る。周囲の歓声が遠のく。子どもたちが駆け寄って、「レナおねえちゃん」と声をかける。だが彼女の返す声は、いつもより少しだけ距離がある。
「うん、よくやったね」レナは微笑もうとした。だが、その笑顔はいつもより固く、きらめきが少ない。トーラは眉を寄せ、アルクは眉間にしわを刻む。誰かが耳打ちするように呟いた。「あの氷菓、やっぱり人の心まで冷やすのかな」
それは外部の噂に過ぎないのかもしれない。だが村の中に、ひそかな不安が波紋のように広がっていく。レナ自身、感情の起伏が以前ほどはっきり感じられないことに気づいていた。母親に叱られたときの怒り、夜に星を見て胸が高鳴る感覚、仲間と笑い合うときの暖かさ——そんな細やかな色合いが、今は薄い灰色に溶けていく。身体的な冷えが、精神の端っこを削っていくのだろうか。
巡回隊は結局、この小さな奇跡を完全には封じられなかった。隊長は配布の違法性を唱えつつも、子どもたちの咳が収まった様子を見て動揺し、指示を保留する。権力というのは、数の論理で動く。村全体が口を閉ざせば、押さえつけられる。しかし、この日の配布は目撃者を残した。暖を取り戻した家族、安堵した彼らの顔。それは摂政の管理を正当化する論理に小さなひびを入れた。
レナは雪の上にうずくまり、膝の上でずっと手をこすっていた。血の巡りが戻る