異世界転生古文書守の証人

異世界転生古文書守の証人 第9話「第8章」

作業灯の輪が狭く滲む修復室で、ミナトは指先の感覚だけに集中していた。糊の匂い、和紙と羊皮の繊維が吸い寄せられる小さな抵抗。今、したいことはただひとつだ——欠けた印章の由来を突き止めること。村の四十余筆の名前が、いつの間にか役所の台帳から消されていく。消されれば、土地は「無主」として徴発される。村人たちの腰の力は日に日に抜けていった。ミナトはその宙ぶらりんな恐怖を、何としても止めたかった。

作業灯の輪が狭く滲む修復室で、ミナトは指先の感覚だけに集中していた。糊の匂い、和紙と羊皮の繊維が吸い寄せられる小さな抵抗。今、したいことはただひとつだ——欠けた印章の由来を突き止めること。村の四十余筆の名前が、いつの間にか役所の台帳から消されていく。消されれば、土地は「無主」として徴発される。村人たちの腰の力は日に日に抜けていった。ミナトはその宙ぶらりんな恐怖を、何としても止めたかった。

「ミナトさん、無理はしないでくださいよ」と楓が、小さな筆箱を机の端に置きながら言った。楓は封印文庫の同僚で、構造墨入れの名手だった。彼女の手つきは几帳面で、どんなに短い時間でも整った仕草が滲む。楓の目にはいつも、書物の紙面に触れる者特有の慎重さがある。

「分かってる。だけど、これを解けば次の扉が開くかもしれない」とミナトは答えた。声は低く、作業灯に影が揺れる。彼の手元には、とびとびに千切れた土地証の小片がある。端は煤け、インクはにじみ、誰が触れたのか分からない複数の指紋が残る。だが、事あるごとに浮かんでいた影——「欠けた印章」という言葉の所在を示す手掛かりは、どうしてもこの破片に通じている気がしていた。

「特徴的な繊維だね」と楓が言った。「この紙は郡庁の保管書式と同じ。下級の保管官が使う在庫の紙。ここまで来ているなら、やつらはわざわざここを通して改竄した可能性が高い」

楓の言葉に、渡したい守る対象の顔が浮かぶ。村の長老、幼い子供、畑の角で泣きながら粟を分け合っていた女——彼らはミナトに初めて助けを求めた人々だった。彼らの煩わしい生活を守ることが、ミナトの異世界での役目になっていた。だが、実際の仕事は綺麗事ではなく、手袋に穴が空いたように危険が忍び寄っている。

「証言は一行だけだ。最後に触れた人の声が出る。それだけしか分からない」と楓は冷静に繰り返した。ミナト自身もその原則を知っていた。能力は便利だが限定的だ。さらに、偽証を修復してしまえば、声を一日失うという代償が待ち受ける。楓の目がほんの一瞬だけ暗くなった。

「もし……偽りだったら?」楓が尋ねる。

「それでもやる」とミナトは決意を含んだ呼吸で答えた。声を失うリスクは、村全体を失う可能性と秤にかけるしかない。楓は唇を噛んだが、黙って頷いた。

作業は慎重に始まった。ミナトは壊れた断片を一枚ずつ広げ、湿した筆で古い糊を和紙の縁からそっと引き離す。指先が震えないよう深呼吸を繰り返し、繊維の向きと厚みを合わせる。糊を薄く伸ばし、乾く前の微かな粘りを利用して断片を寄せる。彼の前世の修復技術が、この世界でも通用する。だがここに魔法が介在するのではなく、触れるという行為そのものが能力の発火条件だ。最後に触れた「誰か」の一行が、文面から立ち上がる。

乾いた息。指先が紙をなぞる瞬間、修復が完了した。

ページの上に、白昼の空気が一つ裂けるように細い光が立ち上がった。楓と作業灯の明かり以外に、別の柔らかな輝きが現れる。浮かび上がったのはごく短い一行の文字列——ミナトの能力が示す「証言」だった。文字は空中に、墨色の波紋のように留まっていた。どれだけ護れと胸が騒ぐと同時に、手のひらの震えが止まらない。

「……『印章は欠けていた。県の命により半分を切り取った』」その一行は、はっきりとした声で語るように見えた。ミナトの耳には他人の声が聞こえたわけではない。ただ、目の前に、終止符のように短く示された行。文字は空中に浮かび、やがてじりじりと消えかけた。だが言葉の重みは消えずに部屋を満たした。

楓の顔色が変わる。細い指先が作業台の縁を掴んでいたのが分かった。

「……半分を切り取った?」楓が小さく息を吐く。「それが本当なら、偶然の損耗ではない。誰かが意図を以て印章を欠損させ、台帳の法的効力を薄めようとした」

ミナトの胸を冷たい風がなぞった。言葉そのものが、今まで抱いてきた疑念を覆う。これまで彼は、台帳の改竄があっても局所的な業者の操作か、保管不備のせいだと考えていた。しかし「半分を切り取った」という一行は制度に直接手が入ったことを示唆していた。それは台帳の形式を損なわせることで、村の権利行使を完全に無効にするための行為に見えた。

「でも——」楓が言いかけて言葉を止めた。目の端に、扉の影が揺れる。

外で小さな足音と囁きがして、里という名の若者が顔を覗かせた。里は村から来た一人で、ミナトたちの仕事を見ては、何かしら手伝おうとする。顔には困惑があり、それと同時に希望が混じっている。

「どうでしたか?」里が息を詰めて聞く。彼の声は震えていたが、確かな熱があった。その熱が里の決断を示していた。里の家族の田畑が、もし台帳から消されたら返ってこないことを、彼は誰よりも恐れていた。ミナトは彼を見ると、胸の奥から守る対象が増えたような気がした。

「……印章が、意図的に欠けられている可能性がある」とミナトは言った。彼はまだ確証があるとは言えなかった。だが、一行の示した方向は明瞭だった。

楓は舌打ちした。「郡庁の保管所を――つまり郡衙(ぐんが)か、郡の台帳を納める官署に、何らかの加工がなされたってことよね。そこに入らないと、印章そのものの由来は分からない」

里の目がキラリと光った。「郡衙に行ってください。僕たちじゃ無理でも、ミナトさんなら……」

「無理だよ、里」と楓が即座に否定した。「郡衙は王室につながる施設。職務執行を口実に厳しく管理されている。入り口だけでも検札がある。正規の請求がなければ手に入らない。私たちが勝手に侵入すれば、文庫自体が危機に晒される」

楓の警告は的確だった。封印文庫もまた王室の記録と連携する一機関だ。違法な侵入が発覚すれば、文庫の独立性どころか存在意義自体が疑問視されかねない。だが村人たちを見捨てるわけにもいかない。

「正面からの請求で出せないはずのものが、何らかの命令で半分切り取られた。命令を出す権限を調べなきゃ意味がない」とミナトは言った。彼の目が固い。

「それなら、潜入しろってこと?」里が驚きを隠せない。

「そうだ」とミナトは言った。「郡衙には、保管官の個人用保管ロッカーや、下級の台帳を繋ぐ補助室があるはずだ。そこに欠けた印章の出所が残っている可能性がある。誰かが半分を持ち帰っていれば、指紋や印刀の跡が残る。俺はそれを確かめたい」

楓は長い間黙ってから、重い息を吐いた。「それなら準備が必要よ。夜間の警備の巡回時間、鍵の管理者の交代、押印管理の記録——どれも私たちの手に入りにくい。やるなら隙をつく綿密な計画を立てて」

「綿密だけじゃ足りない。偶然に見せかける何かがいる。誰かが印章を意図的に欠かなければならない理由が、表には出せないものだ。郡長ではなく、その上の系統が絡んでいる可能性がある。だから、郡衙の内部に入って、実物に触れる必要がある」

楓はミナトの瞳をじっと見返した。この人の決意は、単なる正義感ではない。守るべき共同体に対する責任が根底にある。楓は息を吸い、そして小さく笑った。「やだ、説教じみてる。でも……そうね、一緒に行くのは私じゃない。私にはここで守らなきゃいけない書物がある。ミナトは外へ出て、証拠を取ってきて」

里が