港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る

港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る 第17話「第15章」

潮風が低くうねり、朝の市場はまだ眠りと目覚めの間にあった。濡れた板の匂い、解けかけた氷の冷気、箱からこぼれる魚の腹の甘さが混ざり合う。透は大きな布を広げ、昨日仕入れた魚を並べながら、包丁の刃を指先でなぞった。刃は冷たく、金属の小さな振動が掌に届くと、いつものように力の気配が静かに目の端で光った。手入れした道具が、人の疲れを一度だけ、ほんの短い映像として映す――その手応えを、今日も確かめるように。

潮風が低くうねり、朝の市場はまだ眠りと目覚めの間にあった。濡れた板の匂い、解けかけた氷の冷気、箱からこぼれる魚の腹の甘さが混ざり合う。透は大きな布を広げ、昨日仕入れた魚を並べながら、包丁の刃を指先でなぞった。刃は冷たく、金属の小さな振動が掌に届くと、いつものように力の気配が静かに目の端で光った。手入れした道具が、人の疲れを一度だけ、ほんの短い映像として映す――その手応えを、今日も確かめるように。

「透、もう始めるよ」海音が両手に熱いお茶の入った紙コップを差し出した。風で髪が頬に張りつく。彼女の目はまっすぐで、昨日の余韻がまだ残っている。合意の儀式は市場の端から端へと広がり、今日は八時に新しい輪を作るとみんなで決めていた。

透はコップを受け取り、口をつける間に店の外を見た。勝おじさんが古びた台車を押してきて、朽ちかけのほおかぶりを低くした。早苗さんが、干物を入れた籠を肩にかけながら、ぼそりと「やれやれ」とつぶやく。客たちの笑い声と、波音の奥で鳴る汽笛が、丸い輪になる場所へ人々を誘っている。

輪が出来ると、透は中心の外側に立った。手をつなぐ列は分厚くなり、漁師のゴツい指、主婦の細い手、若い魚さばきの見習いの冷えた掌が混ざる。誰かが「はじめよう」と言うと、自然と声がひとつになった。互いの名前を呼び、今日の負担を言葉にする。合意の儀式はただの儀礼ではない。言うことによって、相手の負担が見え、受け止める者が責任を負う。透はその輪で、自分の力が補助となる位置を知っていた。

「透さん、あの娘を──」雅也が指差したのは、二週間前に来たばかりの見習い、里美だった。夜学に通いながら皿洗いと仕込みをしている。彼女はいつも無言で、目だけで答える子だ。今日は輪の外でぎゅっと肩をすくめていた。

透は手にした小さな鰺を丁寧に拭う。皮を滑らかにし、鱗を落とし、尾の先まで刃が行き渡ったところで、気配を集中させる。手入れした鰺が一瞬だけ、淡い光をまとった。波紋のように、その光は里美の手元へと飛び、そこで止まる。周囲の空気が変わった――見習いの疲れが、魚の表面に一度だけ映像として現れる。

観る者にだけ見えるその映像は、短い時間で、里美の毎晩の通学路、夜遅くに家で弁当を作る母の背中、早朝の仕込みで震える小さな肩を重ねた。人々の顔が一瞬で柔らぐ。勝おじさんが無言でうなずき、早苗さんの目からは光が落ちた。里美は慌てて俯き、手のひらをぎゅっと握った。

「……そんなに無理してたのか」雅也が低く言った。彼の声は怒りでもなく、むしろ申し訳なさのようだった。「俺、もっと仕事分けるよ。明日から夜は俺が皿洗い――」

里美は驚いたように顔を上げると、うっすらとした笑みを浮かべた。「でも、私も学費──」

「学費は皆で考えよう。合意だ」海音が割り込むように言い、輪の中の一つの空気が変わった。合意の儀式は、そんなふうに小さな負担を可視化し、分かち合うためのものだ。透はそれを後押しする役目を担っていた。彼の力が、一度だけ真実を見せる。その瞬間、分かち合いが始まる。

しかし、その連続が危ういことも、透は知っている。力は万能ではない。急ぎすぎれば、力は消え、透自身の休息が奪われる。今日、その境界が試される出来事がすぐにやってくるとは、まだ誰も気づいていなかった。

輪が解けると、軽食を売る若い男が息を切らしてやって来た。スマートフォンを握りしめ、目を輝かせている。「ちょ、ちょっと聞いてください! 昨夜インフルエンサーの子が取材したいって言ってて、すぐ来るって! 30分で20人くらい来るらしいんです。これはチャンス!」

「向こうが来て、何が変わる?」藤堂が眉を寄せる。市場の管理人だ。効率と数字をいつも頭に入れている男だが、今日はどこか迷いが見えた。

「宣伝になれば、取引も増えるし、若い人も入る。そしたら市の評価も上がるかもしれない」若い男の言葉は夢に満ちていた。だが、透は胸が重くなった。短時間で多くの人の疲れを映そうとすれば、力のコントロールが乱れる。だが一方で、宣伝が広がれば里美の夜学のための支援も集まるかもしれない。選択は目の前で揺れていた。

「頼む、透さん。今日のために準備してきたんだ」雅也の目が迫る。彼は静かに、しかし熱を帯びていた。誰かが市場の外に目を向けさせる機会を、待っていたのだ。

透は鰺を両手で包むように持ち、ゆっくりと息を吸った。力を分ける対象が増えれば増えるほど、映し出す像は薄くなる。いくつもの像を立て続けに見せようとすると、最後には何も見えなくなる。そうなれば、透は眠りに落ちることすら許されなくなる。彼は過去に一度、疲れを取り戻そうとして無理に力を使い続け、夜通し目を閉じられなくなった経験がある。体は動いているのに内側は休まらない、あの感覚。思い出すだけで喉が乾いた。

「ここで一気にやるのは危険だ」透は声を出した。「でも、断る意味はない。やり方を変えよう。取材は受ける。だけど、見せる負担は選んだ数だけ。里美さんみたいに、同意して受けてもいい人だけを映す。それを僕が補助する形にする。無理に順番を詰めたりはしない」

海音が薄く笑った。「それなら安心ね。合意を取るのが儀式の趣旨だもの」

「……そうか?」若い男は首をかしげつつも納得したようにうなずく。藤堂がメモを取り、管理者としての顔に戻る。

インフルエンサーが来た。彼女は小柄で、カメラの前では表情を何度も変える。だが輪に入る前、透は里美にもう一度だけ確認した。「見せたい? 本当に大丈夫?」

里美は目を伏せ、まぶたの奥に眠る決意を見せた。「……家族には内緒にできますか?」

「そこは必ず守る」透は約束した。里美が輪に入ると、透はゆっくりと呼吸を合わせ、鰺を拭いた。映像は現れ、しかし次の瞬間、透の胸に冷たい空気が落ちた。複数の手が手早く輪に入れ替わった。カメラを意識した流れで、次々と人の負担を映してほしいという期待が集まったのだ。観衆の期待は暖かいが、重い。

透は急ごうとした。短い間に何人もの疲れを見せれば、彼らの声は一斉に届くだろう。しかし、急ぎは禁物だ。手の中の鰺が光るたびに、像は薄く、色を失っていく。最後の三枚目を映した瞬間、光はふっと消え、鰺はただの魚になった。

透は鋭い眩暈に襲われ、踏み出した足がふらつく。血の中を寒さが走り、胸が締めつけられる。周りの声が遠ざかり、海音が「透!」と叫んだ。彼は手すりに掴まり必死に立ち直る。だがその夜、不思議な現象が始まった。目を閉じてもまぶたの裏に市場の景色が動き続け、体は休めないのだ。座っていても腕が勝手に動いて、包丁を拭き、箱を並べる。眠れないというより、眠ることが許されないような感覚だった。

「無理しすぎたんだよ」早苗さんが透の肩を軽く叩いた。「休みなさい。代わりに私らで回すわ」

透は首を振った。「休めないんだ。休もうとすると、手が勝手に働く」

藤堂が不安げに眉を寄せる。「それは、透さんにしかわからない代償なのか……?」

「うん」透は低く答えた。喉が乾き、声がかすれる感覚がした。「力を無理に広げると、映らなくなる。で、その代償は──俺が休めなくなる。身体は動くけど、内側が止まらないんだ」

輪の中か