港の魚市場の魚屋は帰る場所を作る 第15話「第13章」
潮の匂いが鼻腔にまとわりつく時間帯、港の市場は既に動いていた。ビニールの屋根が朝風にぱたぱたと打ち合い、氷の箱を引くタイヤがコンクリートを擦る低い音が、波のさざめきと重なる。透は作業台に肘をつき、使い込んだ出刃包丁を布で拭いていた。刃に残る水滴の冷たさが指先に伝わる。彼の手の動きは無駄がないが、どこか慎重だった。道具を「整える」行為は彼にとって祈りにも似ている。
潮の匂いが鼻腔にまとわりつく時間帯、港の市場は既に動いていた。ビニールの屋根が朝風にぱたぱたと打ち合い、氷の箱を引くタイヤがコンクリートを擦る低い音が、波のさざめきと重なる。透は作業台に肘をつき、使い込んだ出刃包丁を布で拭いていた。刃に残る水滴の冷たさが指先に伝わる。彼の手の動きは無駄がないが、どこか慎重だった。道具を「整える」行為は彼にとって祈りにも似ている。
「透、あんた居るか?」声は佐村久雄のものだ。久雄はこの市場の古株で、背中が少し丸い。彼の前に置かれた木箱には、長年運搬に使われてきた擦り切れた跡が幾重にもある。
透は箱に触れる。木のざらつき、かすかな魚の匂い、継ぎ目の蟻穴。彼は布で丁寧に埃を払ってから、オイルを少量含ませた布を箱に滑らせた。そのとき、いつもと同じ小さな気配が掌のうちで震えた。触れた道具の「疲れ」が一度だけ、映る――彼の能力はそういう仕組みだった。
箱の木目の奥に、薄く蒼い光のようなものが滲む。透の視界に、久雄の手の軌跡が繰り返し浮かんだ。朝暗いうちに網を運び、昼の喧騒に揉まれ、明け方まで氷を割る。手のひらの膨疹、夜のご飯の残りをかき込む姿、妻の笑顔を遠くに思い出して小さく目を閉じる瞬間。映像は一度限り、静かに、しかし確かに透の胸に落ちた。
「久雄さん、これ……」透は声を上げないように言った。映像は言葉より多くを語った。久雄の顔はすぐに曇る。いつもは強面でも市場全体を見渡す男だが、今朝はどこか脆い。
「わかっとる。だが、体はまだ動く。金を落とさんと誰も助けは来ん」久雄の声は低い。彼は頑なに自分の疲れを認めないタイプだった。それを透の見たものは裏返しにしてしまう力があった。
「検査が来るらしい。契約者だってさ」向こうの方で、若い男がシャツの袖をまくって歩いてくる。青山という名札が見えた。彼ら効率化側の「契約者」はいつだって紙切れと測定器を手にやってくる。旧いものを不適合だと宣言すれば、工事へと道が開く。
青山が止まって、佐村の箱を見た。彼は控えめにノートを取り出す。透は空気が締まるのを感じた。市場の人々の間で「検査」や「検査員」は、台風の前の静けさのようなものだった。
「ここは老朽です。配線、床、衛生基準——」青山は書類に目を落とし、手際よく問いを重ねる。だが、透の方は書類には何も書いてないことを知っていた。ここにあるのは人の汗と、暮らしを支えるノウハウだ。紙に換算できない重みがひしめいている。
青山が刃物を指さす。「作業台の包丁類は安全基準を満たしていない。刃の固定が甘い物がある。事故があれば責任が取れない」
佐村は「昔からこうだ」と言い張る。透は口を挟まず、しかし自分の能力を使うには場が適切かを計った。能力は道具か食材を「一度だけ」整えることで、その道具を使う人の疲れを見える形にする。見た後はその道具はもう一度だけ、違う意味を持つ。条件と代償は透の体にも影響する――急いで助けようと力を注ぎすぎれば、能力は消え、その後透は休めなくなる。休めないとは、眠れないどころか体が休息を受け入れず、目を瞑っても心が騒ぎ止まない状態になるのだ。
だが、今夕刻、期限は近かった。市からの書類が届き、改修計画の提出期限は二週間後だという。工事の初動となれば市場の上に足場が立ち、値上げと立ち退き話が始まる。彼らは「時間」を武器にしていた。
透は決めた。まずは一つ、佐村の包丁を取る。彼は短く息をつき、先ほど使った布を再び取り出して刃の付け根を拭った。金属の冷たさとオイルの匂い。手を添えると、刃の表面に薄い波紋のような光が走った。映像は一瞬だが鮮烈だった。久雄の若い頃の手、子どもを抱えた夜、手首に痛みを覚えてもなおまな板に向き合う姿。透はその断片を青山に見せることはできない。だが、彼は言葉にして伝えた。
「この包丁があの人の仕事の一部であるってことを、今日ここで伝えたいんです。これがなければ、あの朝ご飯も魚もない。危ないのはわかる。けど、刃を補修して使い続けられるのか、そこを一緒に考えてほしい」
青山は書類の端を指で擦る。彼の顔に曇りが走る。そこに不器用な迷いが混じったのを透は見逃さなかった。だが時間は限られている。次々と検査項目をチェックする必要がある。市場の人々は互いに小声で話し合い、透は次に誰の道具を触るべきかを測った。
佐村の次に、若い女の子、由香の氷割り用ハンマーに手を伸ばした。由香は昨日まで高熱で休んでいた。透の布がハンマーの鉄肌を撫でると、彼女の疲れが別の色合いで立ち上がった。眠れぬ夜、母親の介護の隙間に働く手、未払いの請求書。それは佐村の疲れとは異なる種類の切迫だ。透はそれを自分の胸に抱えた。
次々に触る。市場の古い秤、冷蔵庫の扉、網の継ぎ目。映像は次第に重くなり、透の胸の奥を押す。彼はそれを分かち合いたくて、急いで仲間たちに状況を伝えた。だが、いつかの線引きの瞬間が近づいているのを感じていた。体の中で何かがざわつき、眠気が遠ざかるような寒さが訪れる。
「透、もう十分だ」美咲が小声で言った。彼女は市場の帳面係で、目が深く潤んでいた。美咲は自分で行動する余地を見つけていた。仲間たちはあらかじめ分担を決めており、彼女は法的な書類と手続きのチェックを始める段取りだった。彼女の声は透に「これ以上無理をするな」と告げているようだった。
だが、青山のチェックは止まらない。彼は最後に保健基準の欄を示し、冷蔵機器の配線と排水の写真を撮った。「ここが基準未満なら、暫定的に営業停止もあり得ますよ」彼の言葉は市場の音を一瞬消した。
透は自分の内側で何かが固まるのを感じ、ついにもう一度だけ――という許容に手を伸ばした。もっと多くの疲れを見て、どこを補えばいいかを導き、今ここでどうにか時間を稼ぐ。だが、彼は急いでいた。声は上がり、手は早く動く。複数の道具を次々と触り、映像を受け取る。由香の冷たい小さな手、慎の額の汗、近所の老婦の朝食の残り。
途中で、視界が波打った。映像がつながらなくなり、透の胸の辺りに冷たい空洞が開いたような感覚が襲った。彼は息を吸ったが、空気が喉をすり抜けるだけで温かさが届かない。速さが詰め込んだ重さを処理しきれず、彼の能力はしゅんと消えた。
「透、大丈夫か!」慎が声を上げ、腕を取る。透はよろけて作業台に手をついた。手のひらに力が入らない。世界がやや色あせて見える。遠くで青山のシャッターのような書類の音が続くが、透には砂嵐の中で手探りしているような錯覚だけが残った。
その夜、透は寝袋に入っても眠れなかった。体は疲れているはずなのに、瞼の裏に二度と映らないはずの、ほんの一瞬の断片がひっきりなしに浮かんでくる。由香が夜中に冷蔵庫を開ける小さな音、久雄が家に帰る途中に立ち寄る居酒屋の灯り、誰かの子どもの遠い笑い声。それらが交互に現れては消える。彼は目を閉じているのに、心のなかで仕事の予定や修理の段取りのメモが延々と書かれていく感覚に襲われた。休むことが許されない、という感覚は彼の身体そのものを蝕んだ。
翌朝、眠れぬまま透は市場に出た。顔は青白く、手に震えが残る。だが、彼は立っていた。仲間たちはすでに動き出している。美咲は弁護士の連絡先を書い