温泉街の盆栽屋の盆栽師は見送ることを学ぶ

温泉街の盆栽屋の盆栽師は見送ることを学ぶ 第19話「第17章」

午前の光が、障子の紙を透かして室内を薄く染めていた。窓際の盆栽台に置かれた小さな黒松の葉陰に、埃の粒がちらちらと浮かぶ。市松はその埃を眺めながら、刃先に指先を載せたままゆっくりと鉈を引いた。木を削る音は小さく、枯山水のように整った客室の静けさを破らない。

午前の光が、障子の紙を透かして室内を薄く染めていた。窓際の盆栽台に置かれた小さな黒松の葉陰に、埃の粒がちらちらと浮かぶ。市松はその埃を眺めながら、刃先に指先を載せたままゆっくりと鉈を引いた。木を削る音は小さく、枯山水のように整った客室の静けさを破らない。

「亮介さん、もう少し寝ろって言ってるだろうが」

若女将・絵里子が布団の縁を整えながら、くぐもった声で言う。薄い掛け布団の下で、亮介は半分体を起こして、膝の上に両手を乗せていた。額には汗が固まり、白い手拭いが首の後ろに掛かっている。厨房着の袖口にはまだ油のにおいが染み、指先には小さな切り傷が見える。

「休めって言われても、なあ…明日が――」

亮介の声は途切れ途切れだった。彼が俯いたとき、襖の隙間から冷たい朝の空気が差し込み、湯気と混じって少しだけぬるい匂いが鼻先をかすめた。市松は盆栽の根元に手を伸ばし、湿った土を指で確かめる。土の匂いは落ち着く。自分が何をしに来たのか、自分の手にできることが何かを、改めて確かめるように。

「今日だけでも、休めればいいんだがな」絵里子は亮介の肩に手を置いた。手の平は暖かく、しかし震えがあった。「観光交流局の締め切りは──」

絵里子の向こうに立っていた小夏が、詰め寄るように言った。「締め切りがあるからって人が倒れるのを見過ごすの? そんなところに私たちの町の未来なんかないよ」

小夏の声には彼女の陶土をこねるときに出るような固さがあった。市松はそっと鉈を置き、懐から布で巻いた小さな木のお玉を取り出す。手入れしたものだけが持つ匂い――蜜蝋と灰の混ざった匂いが柔らかく鼻を撫でた。お玉は彼の祖父から受け継いだものではないが、いつしか彼の手を通ってきた道具の一つだった。

「これで一度だけ、見えるようにするよ」

言葉は抑えられていた。絵里子が顔を上げ、亮介も眉を寄せる。市松はお玉の柄を両手で撫で、指の腹で艶を確かめた。彼の力は目立つ魔術ではない。手入れした道具や、きちんと整えられた食材が、使う人の疲れを一度だけ見える形にする。それは癒しでも薬でもない。見えることによって初めて、他者がその重さに応じた選択を実行できるようになるための、ほんの一瞬の真実だ。

「でも、市松さん──それで全部解決するわけじゃないよね。あんた、前にも──」絵里子の声には心配と、少しだけの苛立ちが混じっていた。彼女は市松が以前、無理をして何度か力を使い過ぎたことを知っている。力が消えるだけでなく、市松自身が休めなくなるという代償を——町の者たちはそれを見てきた。

市松は軽く首を振った。「分かってる。だから今日は、見せるだけにする。彼の代わりに動いて全部をすぐに何とかしようとはしない。話し合いを始めるための、一枚の映像だと思ってくれ」

亮介はお玉を見つめた。震える手でそれを取ると、唇を噛み締めて眉根を寄せた。彼の手の甲に浮かぶ血管が、白く強調される。市松は一度だけ呼吸を整え、軽く頷いた。

「えいっ」

亮介がお玉で寸胴の味噌汁をかき混ぜると、湯気の中から小さな灰色の霧がふっと立ち上がった。霧は肉眼に見え、盛り上がるようにして亮介の肩から首筋をなぞり、天井まで昇る。そこからぽろぽろと、紙のように薄い何かが剥がれ落ち、畳に落ちる。落ちたそれは、乾いた紙の破片にも似ていたが、近づくと匂いもし、触れることができた。触れた人の手には微かな冷たさが残る。

「……なんだこれ」小夏が息を呑む。絵里子の目からは涙がにじんだ。亮介自身も、驚いたように自分の肩を探り、ぽろぽろと落ちる「何か」を見つめた。そしてその薄片の一枚一枚に、料理場での長時間、締め切りの声、誰かの不機嫌、夜遅くまで続いた洗い物の手のひらの匂い──亮介の一日が折り重なって封じられているのだと分かった。

「俺……こんなに溜めてたのか」亮介の声は最初、遠かった。だが薄片の一枚を拾い、指先に載せた瞬間、彼の表情が崩れた。目の奥が熱くなり、肩の力がゆるむ。絵里子がそっと彼を抱き寄せた。市松は、自分のしたことが効いたことを胸の奥で知りながら、同時に背筋に冷たいものが流れた。お玉を磨くときに払った代価が、今はまだ小さな影であることを願うように。

しかし、襖の向こうから、携帯の着信音が鋭く鳴った。和田の声だった。外の郵便局から駆けつけた彼が、息を切らして襖を開けると、額に光る汗をぬぐった。

「市役所の飯塚からだ。来週の説明会が前倒しになって…急に明日の午後になったって。参加者は全員、時間通りに出席しないと助成が打ち切られる可能性があるって書いてある」

その瞬間、薄い紙の破片が床に散り、部屋の空気がきしむような静寂に落ちた。絵里子の顔が白くなり、亮介がふっと身体を引いた。小夏は何か言いかけてやめた。誰もが、先ほど町のために選んだ一時の休止が、制度という名の力に押し返されることを恐れた。

市松はお玉を柄で背中側に隠すように抱きしめた。自分がこれ以上動けば、また別の「見える」を作り出してしまう。すべてを見せれば、誰かがその重さに応じて選ぶ余地は広がるが、そのたびに自分の力は薄れていく。最悪の場合、力は消え、市松自身が眠れぬ夜と焼けつくような不眠を抱え込むことになる。前にやったときの、あの長い夜を思い出す――目が乾いても閉じられない、心が休まない夜。仲間に迷惑を掛けたくはない。

「どうするんだ?」絵里子が震える声で聞いた。

亮介が、ゆっくりと顔を上げる。目に残っているのは、床に落ちた薄片の群れ。彼はそれを見つめながら、ふと笑ったような、苦笑のような表情を浮かべた。

「俺が…動くよ。使える時間を減らす代わりに、厨房のやり方を変える。今日は休ませてもらう。明日は、手伝いを頼む。町の人に声を掛けて、交代で煮炊きしてもらうんだ。要は時間を分けるだけだ。……でも、それが役所に通じるかは分からない」

「亮介」絵里子が手を伸ばす。亮介は首を横に振り、「いや」と短く言った。「俺が言う。明日は俺が出席する。そこで、今後はただ数字で評価するんじゃなくて、交代制や休憩を組み込んだ運営を認めて欲しいって。ただ、あいつらに分かってもらえるかは分からない。でも俺が行って、ここの現実を見せるしかない」

その言葉には自分で背負っているような決意の響きがあった。絵里子がうなずき、小夏が顔をしかめながらも「分かった」と返した。市松は胸の中に生じた固まりを感じた。亮介の決意は美しいが、同時に「個人が責任を負って改善する」ことを制度が求めるままにしてしまう恐れもある。市松は言葉を詰めた。彼ができるのは、亮介の疲れを一度だけ見せること。そして、それが仲間たちの判断を促すことだ。

和田がしゃがんで、落ちている薄片の一枚を拾い上げた。紙のように薄いそれは、乾いた布の端のように儚い。指先に当てた和田の顔がゆがみ、彼は低く呟いた。「こんなの、役所の机の上じゃ分からないな……」

市松は、お玉を絵里子に差し出した。「これ、持っててくれ。今日のことを話すときに、見せないで。話すだけでいい。もし明日で向こうが譲れって言うなら、俺は……」彼は言いよどんだ。力を行使するたびに自分の夜が薄くなっていくことを考えると、簡単に約束はできなかっ