城下の仕立屋の仕立屋は朝の散歩を続ける 第29話「巻末特別章」
朝靄のあと、城下の石畳はまだ冷たく、葉山甚は鼻先に残る糸油の匂いを嗅ぎながら、いつもの通りを歩いていた。左手には、濡れたまま包んだ裁ちばさみの包み。右肩には朝仕込みの弁当箱──昨夜、拵えた梅干しを一粒だけ添えたものだ。風が渡ると、遠くから祭囃子の練習音が聞こえてきた。今日は町の「再編広場」の公開日。整然とした木の腰掛けと新しい灯籠が並べられ、役場の人間たちが落ち着かなげに書類を持ち歩いている。
朝靄のあと、城下の石畳はまだ冷たく、葉山甚は鼻先に残る糸油の匂いを嗅ぎながら、いつもの通りを歩いていた。左手には、濡れたまま包んだ裁ちばさみの包み。右肩には朝仕込みの弁当箱──昨夜、拵えた梅干しを一粒だけ添えたものだ。風が渡ると、遠くから祭囃子の練習音が聞こえてきた。今日は町の「再編広場」の公開日。整然とした木の腰掛けと新しい灯籠が並べられ、役場の人間たちが落ち着かなげに書類を持ち歩いている。
「甚さん、来たか」紬が先に見つけて手を振る。裁ち子の紬は髪を高く結い、両手に藍染の端切れと小さな絹筒を抱えている。目が少し赤いのは寝不足か、それとも昨夜の仕込みの名残か。
「おはよう、紬。市の人はもう来てるかい?」甚は包みを紬に渡す。紬が開くと、湯気と糠(ぬか)の匂いが立ち上がり、屋台の源太が近づいてきた。源太は昨夜も朝まで準備をしていた男だ。彼が弁当をひと口かじると、肩のあたりにほのかな粒子がわずかに煌めく。空気に混ざった綿埃のように、それは一瞬だけ見える──疲れがそこに「見える」瞬間だった。
源太は箸を止め、目を閉じた。「ああ……この疲れ、見えたよ」と小声で笑う。表情は和らぎ、鞄から小さな札を取り出して椅子に腰を下ろす。「今日は半日だけ店をやめるよ。町の手伝いに回るから」と言って、彼は弁当を紬に差し出した。紬は頷き、甚にも軽く礼をした。
甚の力は、いつもそうして人に選択の余白をつくる。彼が手入れした道具や拵えた食べ物を受け取ると、相手の疲れが一度だけ視える。それは癒す魔法でも治療でもない。疲れが見えることで、本人が自分の体の声を聞き、休むか続けるかを自分で選べるようにするためのものだ。だが、その力には条件がある。手をかけ、時間をかけ、意図を込めた「手入れ」をしたものだけが媒介となる。急げば急ぐほど力は薄れる。そして最も重い代償は、力を無理に多用すると、力は消え、甚自身が眠りを失うことだった。昨夜の彼は、夜明けまで多くの縫い目を直してしまい、その代償で眠れぬまま今日を迎えている。
広場の中央で、役場の宮坂が挨拶をしている。木製の台の周りには町の人々が集まり、笑顔をつくる。だがその輪の外で、年老いた用心棒の辰吉が膝をついて息を切らしていた。畳んだ布を抱え、額の汗を拭う。辰吉は先週から無理をして土留めの作業を手伝っていた男だ。誰もが彼のことを気にかけていたが、彼自身は「もう少し、もう少しだ」と言って屈しなかった。今日はその「もう少し」が限界を越えたのだ。
紬が叫ぶ。「辰さん!」彼女は小走りで駆け寄り、甚は自然と包みを開ける。だが広場には人が多く、次々と助けを求められる気配がある。宮坂の声が届きにくいほどの雑踏の中で、甚の胸に焦りが生まれた。もし自分が一度に多くの人に手入れを施して疲れを見せられたら、誰もが休む選択をするかもしれない。――それは望ましい結果だ。だが、望ましいからといって、やっていいことなのか。
甚は急いで布を水に浸し、次々にぬぐい、雑巾を縫いあわせて渡し始めた。彼の動作はいつものゆったりとした間合いを失い、指先は早く、手縫いは素早く、心は「助けねば」という一点に向かっていた。最初の三人には淡い光が見えた。辰吉、若い女将、灯籠の組み立てを手伝っていた学生。だが四人目、五人目になったところで、光は薄れていった。晨(あさ)の空気の中で、疲れの粒子は消え、布はただの布になった。
「甚さん、無理しないで」紬が手を取る。だが甚は首を振り、さらに数人に短く手入れを施す。人の列は途切れない。誰かの拍手が上がり、宮坂の「これからは市と協力して」の言葉が遠くで回る。甚は自分が力で解決してしまえば、みんなが休むのを躊躇うようになるのではと考えた。だが自分の目の前で倒れた人を見ると、躊躇という言葉は薄れて、ただ手が動いた。
夕方、広場の灯がともったころ、甚は店に戻って座り込んだ。手首に微かな震えが残り、目の奥が重い。夜になっても眠れない。布団に入っても眠れず、針山を指で触っては手の甲に冷たい汗を感じる。彼は自分の心が徐々に乾いていく感覚を覚えた。力は、彼の内側の余白を消耗していったのだ。
翌朝、甚はいつもの時間に起きられなかった。日の出の時間にふらふらと店を出ると、紬と源太、勝が外に立っていた。三人は顔に疲労の色を滲ませつつも、どこか穏やかな力を湛えている。
「昨夜、私たちでやったんだ」紬が言った。彼女の手には辰吉にもらったとおぼしき小さな巻物がある。「甚さんが手入れして見せるのを待つだけじゃない。自分たちでちょっとずつ、じっくりと手を入れて……そのとき、人は自分の疲れを見て、休むかどうか決められるようになった」
勝は古い針を何本か取り出していた。彼は機械の導入を前に少し手を休めていたが、昨夜は友人たちと一緒に古い針を研ぎ、糸を選び、針箱を拵えた。源太は、甚の弁当の包み方を真似て、屋台の常連に小さな包みを配った。「一つ一つやるのは面倒だ。でも誰かの代わりに立ち上がるって、そういうことだろう」と彼は言った。
甚は言葉が出なかった。胸の中に忍び寄るのは、安心と申し訳なさの混じった感情だ。自分がいなくても、誰かが手を止めずに手入れを続け、見えるものを見せ、それを受け取った人が自分で選ぶ。彼が力で全部を代行してしまう必要は、確かにない。
だが彼の体は、まだ眠りを拒んだ。頭はぼんやりと重く、視界にちらつきがある。訊ねる前に紬が続ける。「昨夜、私もやってみた。甚さんに教わった通りに、布を揉み、匂いを落とし、縫い目を確かめてから渡したら、彼女は自分で椅子に腰かけたんだ。あの瞬間、疲れが見えた。赫(あか)くはないけれど、確かに見えた」
紬の話を聞きながら、甚は自分の手を見た。針先に残る傷の線。糸の油の匂い。彼女の言葉は、これまで彼が抱えていた不安を静かに崩していく。力は彼の専有物ではないのかもしれない。だが同時に、彼の代償の重さは現実で、昨夜の無理が彼の睡眠を奪った――それは変わらない。
源太がポケットから小さな札を取り出す。昨夜、彼が休むと決めたときに作った「番付表」だ。そこには「交代で見守る」と書かれ、町の名が列挙されている。「甚さん、今日の散歩は短めでいいよ。僕らが見てる。君はこの町の歩幅を作った人なんだから、無理はしないでくれ」
甚は微笑み、だがその目は決して安堵だけではない。まだ心のどこかに、朝の光の下で誰かがふらつくたびに飛び出していきたい衝動が残っている。彼は自分の目的──朝の散歩を続けること──を思い出す。散歩は単なる習慣ではなく、町の声を聞き、誰かの歩みを見届ける時間だ。それを続けるためには、彼自身が力を枯渇させないことも必要だ。
紬が小さく首をかしげ、薄く笑った。「ねえ、甚さん。今日、決めてくれない? 私たち、もっと人に教えるよ。手入れの仕方を。急がずにやる。甚さんは朝の巡回を続けて、見つめることを続けて。二人でやることもできる。三人でも、十人でも」
そのとき、通りの角で、小さな荷車を引く子どもが立ち止まった。荷車には残り布や古いボタンが入っている。子どもは甚を見上げ、恥ずかしそうにひと言。「じんさん、ぼくにもやり方、教えてほしい」──その声は揺るぎない。教わりたいと