石畳の銭湯の番台は新しい家族を迎える

石畳の銭湯の番台は新しい家族を迎える 第15話「第13章」

午前七時、銭湯の暖簾はまだ半分だけ返されていた。外の石畳は夜露で黒く光り、朝日が低く差し込むたびにわずかに湯気が立ち上る。番台の千絵は墨で滲んだ筆跡のように伸びた自分の指先を見つめ、カウンターの上の木の柄杓を拭いた。柄杓の木目に沿って古い油の匂いがうごめき、布が気持ちよく滑る。目を上げると、番台の向こうに集まった顔ぶれがあった。

午前七時、銭湯の暖簾はまだ半分だけ返されていた。外の石畳は夜露で黒く光り、朝日が低く差し込むたびにわずかに湯気が立ち上る。番台の千絵は墨で滲んだ筆跡のように伸びた自分の指先を見つめ、カウンターの上の木の柄杓を拭いた。柄杓の木目に沿って古い油の匂いがうごめき、布が気持ちよく滑る。目を上げると、番台の向こうに集まった顔ぶれがあった。

「今日は票を取ります。まずはルールを整えるところから」美登里がそう言って、白い便箋を差し出した。便箋には墨で太く「疲れの優先順を決める」とだけ書かれている。周囲の人々の手元にも同じ便箋と、赤い丸をつけるための朱墨が配られていた。

商店街の魚屋の息子、ユウは片手に缶コーヒーを握り、背伸びをした。佐藤の大工、健二はまだ手に木屑がついている。灰色の作業着の中に小さく座るのは百合子——隣の八百屋の年配の女性だ。外の道の向こう、遠くで重機の低い唸りが断続的に聞こえた。千絵の胸に、いつもと同じ小さな緊張が走る。力はある。だが使い方を誤ると、すべてが途切れる。

「最初の提案は、まず高齢者と子ども、次に夜勤の人。それから病気のある人。声がかけられない人は、代理の証言で入れる」美登里が読み上げる。声は低く、説得力があった。そこへ千絵はそっと柄杓を返し、手を伸ばしてその端を拭き直した。力は、手入れした道具や食材に宿る。千絵が最近仕立て直した木の柄杓は、ほんのりと温かく、いつもより色が深かった。

「一度だけ、状況確認で使えるようにしよう。」ユウが言った。「ただし一日に一度だけ、って線引きはどう?」

「そこなんです」千絵は指で便箋の角を押さえながら言った。「一日に一度、って決めてもらえると、私が焦って消してしまうことを避けられる。急いで多用すると力が薄れて消える。しかも私が休めなくなる——休めなくなると、さらに力が使えなくなるんです。」

部屋の空気が一瞬止まった。黙っていた健二が、大工の手で親指の付け根を揉んでから言った。「それで、誰がその一回を使えるかを票で決めるのか?」

「はい」美登里が頷いた。「住民投票で。厳密に、名前と理由を書いてもらう。匿名も一応受け付けるけれど、できれば本人が出てきてほしい。」

手書きの便箋に鉛筆の先が走り、小さな線が紙の上で踊る。場面は切り替わるように、千絵の指先が柄杓を撫でるショットと、遠くの工事車両のタイヤが砂利を噛んで進むカットが交互に頭に浮かぶ。筆記する音とエンジンの低い唸り、墨の匂いとディーゼルの匂いが混ざった。

議論は細かく続いた。優先順位の例外、代理投票の条件、急を要するときの連絡方法——千絵は一つずつメモを取る。だが同時に、彼女の耳は外の遠吠えをなぞるように聞き分けていた。工事車両は以前よりも頻繁に見かけられるようになっていた。現場の位置を示す白い紐が、昨日はまだ通りの端に一箇所だけだった。今朝、その紐がもう一箇所増えていた。

住民投票の方法は決まった。便箋に名前と理由を書き、投票箱に入れる。集計は明後日の朝、銭湯の前で行う。千絵は墨を乾かすために、便箋を広げた手の上に片方の傘をそっと置いた。その仕草に、いま一瞬だけ力が宿った。彼女はその力で、曲がり角の向こうに立つ百合子の背中の疲れを「見せる」ことにした。

「試験です。昔の決まりの通りにやります。」千絵は小さく声を出すと、柄杓を百合子に差し出した。百合子は渋い顔で手を合わせ、柄杓の木肌に触れた。千絵は目を細め、心の中で力を整える。目を閉じると、木の温度が舌先のほのかな暖かさのように拡がった。

その瞬間、空気が少しだけ変わった。百合子の周囲に、羽根のような薄い陰影が一回だけ現れた。陰影は肩から前胸にかけて漂い、まるで消えた息のようにふわりと形を取った。匂いがし、歯車の詰まった重い時計が一つだけ止まった音がした。周囲の人たちが息を飲む。

「これが見えるんだね…」美登里が呟いた。百合子は驚いて手を離すと、しわの多い掌を見つめた。その掌に、意識したわけではないが、お湯の湯気の中にささやかな光が当たったように見えた。

「具合が悪いわけじゃないの、ただ身体が冷えて取れない疲れがある」と百合子は言った。「買い物を二往復してるのよ。店も人手が減って…でも言い出せなくてね。」

「だから優先するんだ」千絵は静かに言った。「こういう疲れを見えるようにして、順番を変えたり、手を借りやすくしたりする。それが目的なんです。」

だが試験の成功は安堵と同時に代償ももたらした。千絵は柄杓を布で包むように握りしめたまま、胸の奥がざわつくのを感じた。力が行使されたために、彼女の内部にある「休め」というスイッチが少しずつ摩耗する音がした。最初は小さなひび割れだが、確実に増えていく。

「千絵さん、大丈夫か?」ユウが心配して近づいた。千絵は笑って首を振ろうとしたが、笑顔が一瞬だけひどくぎこちなくなり、眼差しが遠くなるのを自覚した。手が冷たくなり、視界の端に白いノイズが走った。

「少し、横になります。」千絵は言って、背もたれに体を預ける。だが横になるという行為そのものが、彼女にとっては贅沢になりつつあった。力を使いすぎると休めなくなる。休めなくなると次の力が使えない——それをみんなで理解してもらわなければならなかったのだ。

議論の末、投票方法には一つの追加条項がついた。千絵の力は「真実の一回」として認められるが、それを使うタイミングは住民の合意で決める。緊急時には代理の合意二人で決定する。誰かが夜勤明けに具合が悪そうなら、まずは声をかけてほしい。使う前に可能な限り他の手段を試すこと——それが新しいルールになった。

紙とペンの擦れる音と、遠くの工事車の金属が接触する音が交互に響く。千絵は筆で最後の一行を墨で押さえた。手書きの文字はどこか拙いが温度がある。投票箱の蓋を閉めると、周囲から一斉に吐息が漏れた。

だが夕方、投票箱を閉めた直後に外の空気が変わった。石畳の向こうの工事用の白いバンが、名刺大の紙を差し出して中年の男を下車させた。男は黒いスーツに白いシャツを着て、腕にネームプレートをつけている。近づくと、胸のネームには「開発企画課 野田」と書かれていた。

「お忙しいところすみません、ここが例の…石畳の銭湯ですか」野田は表情を崩さずに、名刺を出した。手の中の名刺は光を反射し、誰かが撮った写真のように不自然な鮮明さで光った。千絵は無言で名刺を受け取り、名刺の角を指で押さえた。指先に微かな冷たさが走る。

「こちらは地域の集まりです。用件は何です?」美登里が前に出る。声は平静を装っていたが、肩の辺りに小さな震えが出ている。

野田はポケットから薄い封筒を出し、真ん中にある紙をひとつ取り出した。それは市の調査告知だった。そこには大きく「測量実施のお知らせ」とあり、測量は「明後日午後二時より」と記されていた。さらに小さく、「施工準備として基礎確認を行う」との文言。封筒の隅にはすでに白い紐を張るための小さな印が押されていた。

「説明に来ました。測量は公的手続きに基づくものです。近隣の皆様の協力をお願いするつもりで……」野田の目は何度か千絵の顔をなぞった。千絵は、彼の瞳に抵抗のない安心感などないと直感した