海霧の宿の宿主は誰も急がない祭りを開く 第22話「第20章」
波の音が、いつもより近く聞こえた。宿の木製の縁台に座る灯(あかり)は、濡れた紙垂(しで)を指先でなぞりながら、深い海霧を見つめていた。霧は港の灯を包み込み、世界の境界線をぼやかす。向こう側に何があるかは、視界でなく、匂いと音でしか判断できない夜だった。
波の音が、いつもより近く聞こえた。宿の木製の縁台に座る灯(あかり)は、濡れた紙垂(しで)を指先でなぞりながら、深い海霧を見つめていた。霧は港の灯を包み込み、世界の境界線をぼやかす。向こう側に何があるかは、視界でなく、匂いと音でしか判断できない夜だった。
「終わったよ」夏葉が息を切らして戻ってきた。手には麻の袋と、縁のほつれた提灯を抱えている。縁台の木は冷たく、湿気を含んでいて、彼女の体温が伝わってくる。
灯はただ小さく頷いた。声に出して言う代わりに、灯は自分の掌を提灯の縄に触れさせた。手入れされた道具に触れると、いつもの小さな光景が瞼の裏に現れる――前にその道具を握った人の一度だけの疲れ。夏葉が最後に結んだ時の、細い息遣い。力が入って少し震える小指。そうした愛おしい残像は、灯にとって道具と人を繋ぐ地図だった。
「いい匂いだ」と漣が鼻を鳴らす。調理場からの湯気と焼き魚の匂いが、軒先を漂ってきた。仲間たちは、それぞれの役目を終えて、細かな仕上げに余念がない。ほとんどの仕事は、もう灯の手を借りずに回っている。灯はじっと見守る役割を自覚していた。それが、ここ数日の自分に課した決まりだ。
その時、港の方から低いエンジン音が聞こえた。ふだんの漁船とは違う、重低音。灯の胸に、緊張がぽつりと落ちる。皆が振り向いた。漁具が風に鳴る音と重なり、霧の中でエンジンの音が波を切るように広がる。
「夜間に入るはずは……」夏葉が呟く。声の端に怒りと不安が混じっている。灯はゆっくりと立ち上がり、縁台から足を下ろした。濡れた石畳が冷たく、足裏からつめたい感触が伝わる。誰かが夜襲をかける理由を考えるより前に、音は近づき、鉄が木を押し潰す音がした。
波打ち際に重機が現れた。朽ちた木製山車(だし)を無理やり押しのけ、飾りの幟(のぼり)をなぎ倒す。ライトが暗い霧を切り裂き、鋼の履帯(りたい)が砂を引きずる。紙片が火花のように舞い上がり、紙垂が散る。海風に着いた油の匂いと、鳥の逃げる声。灯は息を詰めた。
「止めろ!」漣が叫んだ。だが、彼の声は霧に吸われ、金属のうなりにかき消されていく。重機の運転席にはフルフェイスのヘルメットをかぶった人影が一人。背中に反射テープが光る。胸元に認識票らしきものが垂れていたが、霧と距離で読み取れない。
灯の手が、無意識に近くの縄に伸びた。守りたいものを前にして、力を使わないでいるのは容易ではない。だが彼女はすでに決めていた。急いで役に立とうとするたびに、その小さな力は消え、灯自身が休めなくなる。休めない者が見守ることなどできない。自分は見守る。そう自分に言い聞かせた。
しかし、重機は目の前の設営物を壊し続ける。木の骨組みが一拍おいて折れる音。松明が倒れ、油が砂に染みる。夏葉が駆け寄り、手を伸ばして幟の端をつかもうとする。灯は胸の奥がきゅうと引き締まるのを感じた。手はとっさに縄に触れ、いつもの像が浮かんだ――幟を結んだのは昨年のスタッフ、年配の男。彼の疲れは穏やかだった。それは守るべきものの生気を映す光景だった。
夜の空気が裂けるように、灯はより遠くを見通そうとしていた。運転席の中、騒音で人の顔は見えない。誰が指示しているのか。個人なのか、制度なのか。灯の力は道具や食材が見せる「一度の疲れ」を映すだけで、行為を追跡することはできない。だが、どうしても知りたかった。運転手の疲れを、一度だけでいいから見れば、彼らの事情が分かるかもしれない。そうすれば、誰かを責めるのではなく、問いかける道筋が見つかるかもしれない。
「灯、やめて」漣の声が耳元で震えた。彼は幟の下敷きになった板を剥がし、指を切ったらしく、血がにじんでいる。夏葉は手に泥を付けながら、倒れた提灯を抱きかかえていた。皆、独立して判断し、動いている。見守るはずの灯に、どれほどの責任があるかを測りかねていた。
灯は自分の掌を運転席に向けた。彼女の力は触れたものに「一度だけの疲れ」を映す。だが、いま欲しいのは「足跡」でも「顔」でもない。欲しいのは、理由だった。だから灯は、いつもより強く力を引き出そうとした。焦りを含んだ瞬間、世界が薄く震えたように感じた。
最初に現れたのは、重機のコントロールレバーに残された油の匂いと、握った手の赤い跡。像は小さかった――若い男の短い呼吸、震える顎、そして指の先に残る古いやけどの痕。それは、誰かが力仕事をして、無理をしてきた痕跡だった。灯はその像を追った。だが追いかけるほど、像は逃げる。疲れの一瞬を超えて、灯はもっと深く掬い取ろうとした。
力を「急いで」役に立とうとした刹那、灯の掌の温度が急に低くなった。像は消えた。代わりに、胸の奥に冷たい空洞がぽっかりと現れる。身体が、寝付くための柔らかい沈みを失ったように感じた。眠気が訪れない。瞼が重くならない。息だけが荒くなる。灯は深く息を吐いたが、胸のざわめきは収まらない。力を使おうとして、「急ぎすぎた」瞬間、能力は消え去った。その代償が、今の自分だった。
「灯、大丈夫か?」夏葉が駆け寄る。漣は血を押さえる手を止め、灯の顔を覗き込んだ。灯は笑おうとしたが、口の端がひりつくだけだった。瞼の裏がずっと明るく、眠るべき暗闇がない。
「大丈夫。……多分」灯は言った。しかし、その「多分」はほんの短い息に過ぎなかった。彼女の耳にはまだ重機のエンジン音が残り、波のざわめきが遠くにある。仲間たちは既に自分たちで動いていた。倒れた幟を結び直す人、壊れた骨組みを支える人。誰かが火を消し、誰かが割れた提灯の破片を拾っていた。灯は、自分が見守ることで彼らが自走できる場を作るつもりだった。だが、何かが壊された事実は残る。
人影が近づいてきた。運転席から飛び降りたその人物は、ヘルメットを取ると、薄く年若い顔を露わにした。彼の顔には海風と労働の輪郭が刻まれている。胸のポケットには、白い紙が折りたたんで突っ込んでいた。灯の視線はそれに引き寄せられた。彼は震える手でその紙を落とす。紙片は縁台の下で、波の音に混じって小さく震えた。
夏葉がしゃがみ、紙を拾い上げる。そこには、朱肉の押された印が一つ。文字は三文字、「港整」――焼けたようにかすれたスタンプだ。灯はその時、胸の中に余計な焦りがじわりと広がるのを感じた。スタンプは、町の整備に関する許可証の一部らしい。紙は完全ではないが、誰かが公の仕事と夜間の侵入を結びつける証拠になり得る。
灯はもう一度目を閉じた。闇がないのではない。目を閉じても、休めないのだ。自分が力を使ったせいで、眠りが奪われた。代償のページが、身体の中で音を立ててめくられていく。だが同時に、新しい事実が手の中にあった。重機を操っていた男は、個人の悪意だけで動いているのではない。彼のポケットに押された印は、制度の匂いを帯びていた。だがそれが「証拠」か「でっちあげ」かは、これから仲間たちが判断することだ。
「これ、どうする?」夏葉の声に灯は首を振れなかった。言葉が喉に引っかかる。漣は握りしめた拳を解き、設営物の破片から幾つかを拾い上げてまとめる。皆は自分の温度で現場を整え始めた。灯はその背中を見ながら、胸の中で二つの問いが交差するのを感じた。一つは、失った眠りをどうやっ