海霧の宿の宿主は誰も急がない祭りを開く 第19話「第17章」
朝の海霧が、宿の瓦屋根をゆっくりと撫でていく。舟見結は、まだ湿った板縁に足を置くたびに塩の匂いと草木の露の冷たさを感じた。彼女の手には布が巻かれた小さな手提げ箱。昨夜から磨いてきた鉄のフックと、今朝拭いた紙燈籠の骨組み。指先の端に残る油のにおいが、彼女がいまこの時間にいる理由を告げる。
朝の海霧が、宿の瓦屋根をゆっくりと撫でていく。舟見結は、まだ湿った板縁に足を置くたびに塩の匂いと草木の露の冷たさを感じた。彼女の手には布が巻かれた小さな手提げ箱。昨夜から磨いてきた鉄のフックと、今朝拭いた紙燈籠の骨組み。指先の端に残る油のにおいが、彼女がいまこの時間にいる理由を告げる。
「おはよう、結ちゃん。まだいるねえ。」
高野房江がゆっくりと門を潜ってきた。肩には薄手の羽織、手には古い笛を抱えている。房江の足取りは軽くはないが、顔には期待の光があった。結は口の端で笑って、手提げ箱から金具を取り出して見せる。
「これ、さっきまで仕上げてた。今朝の海霧だと錆びやすいからね。舞台の柱に使うフックは私が――」
「それだけじゃないのよ」と房江が割り込むように言った。「結ちゃん、あなたがあの提灯に手を入れてくれたから、昨日の夜、若い連中もまた来て練習したのよ。ありがとね。私は今日、昔の踊りを若い子に教えることにしたの。ゆっくり、ゆったり、をね。」
結は首を傾げながら、紙燈籠の一つを軽く掲げた。薄い和紙を通して、海霧の光がうっすらと透ける。彼女が指で骨組みを撫でると、燈籠の表面に一瞬、まるで湯気のように白い線が走った。その線は次第に形を成し、房江の背中の曲がり方や、握りしめた笛を支える細い指の疲れをなぞる絵になった。房江自身はそのことを先に気づき、手を止めて小さく息をつく。
「ああ……これ。あんたの力、また効いたのね」
「ええ。私が手入れした物は、使う人の疲れを一度だけ見せる――ってこと、まぁ、だいたいあってるわ」と結は言った。声は平然としているが、胸の奥では小さな針が震える。力の条件は彼女の身には太い枷のように重く、同時に優しい灯火でもある。
その時、庭の砂利を踏む足音が硬く、屋敷の前で止まった。背広を着た男が書類を抱えて立っている。長谷川誠、市の地域整備課の名札が胸にきらりと光った。彼は宿の外観には関心がある風でも、祭りの準備には興味なさそうに見えた。
「舟見さんか。書類の確認に来た。港湾計画の関係で、安全基準の再確認だ。祭りの設営も、速やかに終わらせるように指示が出ている。時間と労力を効率的に使ってください」
彼の言葉は事務的だが、その端に明確な期待がある。結は深呼吸をして、用意してきた金具と配置図を差し出した。長谷川はぱらぱらとページをめくると、眉をひそめて「ここはもう少し留め具を増やす必要がある」と指摘する。彼の視線は数字と締め切りに吸い寄せられている。
「今のままだと風が出たときに倒れる恐れがある。人手を増やして、もっと効率的に取り付けろ。時間は――」彼は腕時計を見るふりをして呟いた。「一週間だ」
一週間。結はその言葉に胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。祭りは二週間後に予定されている。本来ならのんびりと準備を進めてよいはずのペースを、外側の要請が一気に押し上げる。房江が低くうなずいたが、目は踊りのことを思い出しているようだった。
「効率、ねえ……」房江はぽつりと言った。「結ちゃん、若い子に踊りを教えるけど、急いで覚えさせるつもりはないのよ。腰の落とし方、息継ぎ、そういうものはね、急いだら全部飛んじゃう」
「それはわかってる」と長谷川が割って入る。「しかし、規定は規定です。準備が遅れれば、安全確認の段階で問題が出ます。スピードを上げるための提案は市でも用意している。資材はまとめて配給して、職人の手順を標準化すれば、二日で終わります」
結の手が、箱の中の最後のフックの根元を撫でた。そのとき、庭の端に置かれていた木箱に触れた誰かの手が、箱に一瞬の光を宿らせた。木箱を持ち上げたのは潮見海斗だ。彼は若く、背中には漁師の筋肉が盛り上がっているが、顔には眠気と不安が染み付いていた。彼が箱を置くと、その表面に、昨夜彼が酔っ払って寝落ちした時の肩の落ち方が、ほんの短い白い波紋となって浮かんだ。
海斗はそれを見て、ふっと息を吐いた。「やっぱり……疲れてたか。俺、昨夜も船から帰って来てすぐ練習場に来たもんな」
房江はゆっくりと海斗の肩に手を置く。「まあね。でも、その疲れを認めないで無理するのが、美談ってわけじゃないのよ。ゆっくりやるなら、代わりに誰かが見てあげる。それが祭りの意味なんじゃないかしら」
長谷川は腕組みをして、少し呆れたように笑った。「そんなことを言っている場合じゃない。効率は安全に直結するんだ。私たちは数字で示さなければならない」
結は黙って立っていた。彼女の力は、手入れした物が一度だけ使い手の疲れを「見える」形にする。見えると、人は立ち止まる。だけどそれをやりすぎないようにしなければならない。急いで役に立とうとすると――彼女はその制約を胸に抱えながら、昼の作業を引き受けていた。だが今、外からの締め付けと人々の不安が重なったとき、結のなかで何かがせり上がってきた。
昼の暑さが庭に溜まった頃、長谷川の要求で園内の吊り金具を増やすことになった。結は自分が磨いたフックを次々に柱に打ち込んでいった。スクリューの回転音とハンマーの響きが、海霧の静けさを切る。手を速める。早く終わらせて、長谷川の納得を得なければ。住民たちの心配が晴れれば、みんながゆっくり踊れる時間が戻るかもしれない――結はそう思って、力を込めて打ち込んだ。
最後の一つを締めて、彼女は支えに使っていた小さな台から降りる。背中に小さな痛みを感じたが、気にしない。心の中では小さな鐘が鳴り、何かが振動するのを感じた。だがその瞬間、目の前の紙燈籠の表面が、ふっと消えた。朝に見えた房江の疲れも、海斗の薄い波紋も、すべてがまるで絵の具を拭き取られたかのように消えていった。
「……あれ?」
房江が燈籠を覗き込み、わずかに眉を寄せる。海斗は手を停めて、空気を吸った。「さっき見えたのに。なんで消えたんだろう」
結は胸の奥が冷たくなるのを感じた。力が――消えた。だが声に出してはいけない。彼女は急に体が熱くなり、脈が跳ねるのを自覚した。どこかで歯ががちりと鳴る。やってはいけないことをやった。急ぎすぎた。役に立とうと必死になった瞬間、力はわずかな炎のように消え、代償が彼女の中に残った。
夕方になって、宿の奥の畳に腰を下ろす結の視界はぼんやりとしていた。呼吸は浅く、まぶたの裏に白い光の点が滲む。房江が差し入れた梅干しが塩っぱく、彼女の舌に強く感じられる。眠らなくてはならないのに、眠れない。目を閉じると、胸の奥で小さな機械が止まらずに回り続けるような、継続的なざわめきがあった。布団に横になっても、身体は休むことを許さない。
「結ちゃん、どうしたの。顔が青いよ」
房江がそっと布団の脇に座り、結の手をとった。房江の掌は暖かく、しかし結はその暖かさに寄りかかることができない。彼女は申し訳なさと嫌悪が交錯するのを感じた。自分が役に立とうとあがいたことで、光を手放してしまった。しかも、これから寝られない体になるなんて。
「あの、私……」結は言葉を探したが、すぐに喉が詰まった。どれだけ説明しても、相手は理解できないかもしれない。力の消失は、ただの道具の不具合ではない。彼女が「急ぎすぎた」結果、体の調律そのものが狂ったのだ