海霧の宿の宿主は誰も急がない祭りを開く

海霧の宿の宿主は誰も急がない祭りを開く 第15話「第13章」

窓ガラスに海霧がべったりと貼りつき、外の世界をすりガラス越しにぼやかしている。滴が垂れては筋を描き、時折強い風と一緒に細かな塩粒が窓枠に音を立てた。紺野渚はその向こう側にある景色を見ているのか、あるいはただ白い明かりの粒を見ているのか、自分でも判らないまま布団に包まれていた。額に手を当てると、ぬるい汗が指先にまとわりつく。

窓ガラスに海霧がべったりと貼りつき、外の世界をすりガラス越しにぼやかしている。滴が垂れては筋を描き、時折強い風と一緒に細かな塩粒が窓枠に音を立てた。紺野渚はその向こう側にある景色を見ているのか、あるいはただ白い明かりの粒を見ているのか、自分でも判らないまま布団に包まれていた。額に手を当てると、ぬるい汗が指先にまとわりつく。

「渚、無理しないでね」島村梢が、濡れた手拭いを額に押し当てる。梢の声はいつもより堅く、自分で選んでいるというよりは義務めいたものが混じっていた。梢の髪は料理の匂いと潮の香りに混ざり、布地の端からかすかな出汁の残り香が漂う。

坂倉光は窓際に立ち、外に向かって噛みしめるように言葉を吐いている。「広報の奴ら、あれを使ってくるとは思わなかったぜ。『不安定な祭り』って、そんな台詞が通ると思ってるのか」

「通るんだよ。データと図式があれば、感情は簡単に後ろに追いやれる」大野透がぼそりと言った。大野は港を知っている男で、手にするものの重さをいつも気にしている。今日は漁から戻ってすぐにここへ来たらしく、塩で白くなった手のひらを膝に置いたまま、声を震わせない。

窓の外、久保田禎──地域開発課の広報と言われる男が、カメラを片手に群れを作った報道屋と住民の群れに向かって説明している。彼の資料には祭りの映像と、渚が倒れた日の新聞見出しが整然と並び、そこに「リスク」という文字が太陽のように重ねられていた。久保田の笑顔は薄く、しかし努力の跡があり、誰にでも説明できる言葉を用意していた。

梢が渚の手を握る。渚は薄い声で笑って、それがかすかな咳に変わる。「梢、あの……誰か、外でさ」

「見てる。久保田が宣伝してるの。あいつ、渚さんのことを見せ物にしてるのよ」梢が小さく舌打ちする。渚は目を閉じ、歯の間に入れた舌の感触を頼りにして自分を保とうとした。体の表面が芯から冷えていく。昨夜、幾つかの道具と鍋に手を当てて、人々の疲れを一度だけ見える形にした。その瞬間のやさしさと,次に訪れた深い眠りがまだ身体に残っている。だが、その「やさしさ」を上回る疲労の始まりが今また胸の奥でざわつく。

梢が折れたようにため息をついた。「光、どうするの。みんな不安がってる。噂は広がる一方よ」

光は首を振った。「待ってもらえない。だけどここで黙って見てるわけにもいかない」彼はふっとポケットから紙切れを取り出す。その紙には、手書きの告知が二つ三つコピーされたものだった。『集会のお知らせ。海霧の宿で話し合いを。』彼の指が震えている。

渚は布団の上で、指先で枕の縁を掻いた。差し込む光は薄く、呼吸に合わせて部屋の空気が揺れる。彼女は自分の力を思い出す。手入れした道具や食材に手を当てると、それを使う人の疲れが一度だけ、ささやかな形で現れる——濁った湯気のように、あるいは小さな影の流れのように。見えるというより、使う人の「休みたい」という声が触れる形で、対象がそれをひらりと返すのだ。だが条件がある。助けようと、焦って、急いで力を使えば、その瞬間に力は消える。そして渚自身が、永続的な眠りから手放されないような形で、休めなくなる。

梢が渚の手を強く握りしめる。「もう使わないで。二度と」

そこで、渚は小さな声で言った。「梢、私に触らせて。あの……誰かが、外で私たちを信じてくれるなら、今日の夜、また繋いでみたい」

言葉は薄く、しかしその言葉には選択の重みが宿っていた。梢の目が潤む。光が前に出て、外の方を睨むように見つめる。大野が重い唾を飲んだ。

「俺、あの夜に見えたんだ。海の家の古い櫓の下で、手を止めてた自分を。言い訳が多くて、漁を優先してた。渚さんのやつが、そいつを見せてくれた。俺は休んだ。たった一回だけど、楽になったんだ」大野の声が割れて、背筋を伝って潮の匂いが立つ。「今、あいつらがそれを不安定だって言うなら、俺は黙ってねえ」

その言葉に、部屋が一瞬静かになった。外では久保田が次の一手を考えているのか、話す声が変わる。報道陣のフラッシュが窓にちらついて、海霧の水滴を虹色に光らせた。

梢が、渚の指をぎゅっと握ってから、ゆっくりと膝に置いた。「もしもう一度使うなら、私たちが守る。だけど条件を守って。焦らないで。渚さんが『助けよう』って気持ちで急いだら、全部失う」

渚は息を吸うと、うっすらと微笑んだ。「わかってる。急がない祭りを開くんだものね」その言葉は囁きであって、大きな決意のようにも聞こえた。

光が紙を握りしめながら、窓の外に向かって低い声で言った。「私たちが話し合う場を作る。渚さんの言葉で、みんなが自分の疲れを認められるように。もし街がそれを怖がるなら、俺たちが見せてやる。自分たちの疲れを、恥じるものじゃないって」

その時、梢の耳に玄関の鈴がかすかに鳴る音が届いた。誰かが急いでいる。渚は目を合わせずに、弱々しく手を差し出した。梢はその手を取り、指の暖かさを確かめる。

玄関からは、若林沙耶の息切れした声が入って来た。「お願い! 私も……参加したい。渚さんのところで、休み方を学びたいって、今朝ついに言えたんです」

声に続いて、タムラ和也のぶっきらぼうな笑い声が混じった。「俺も、あの夜以来、網の扱い方を変えた。無理してるのは俺だけじゃなかったって、やっと気づいたんだ」

渚は軽く点を打つようにうなずき、目を閉じたままゆっくりと息を吐く。手の甲に、わずかな震えが走る。もう一度だけ道具に触れれば、人々の疲れは見える。だがその代償として、渚はまた眠りから放たれなくなるかもしれない。眠れないだけならまだしも、疲労が身体の奥で膠着して、何日も動けなくなる可能性がある。

窓の外で久保田が声を高める。「説明会を来週に設定します。効率的な整備と安全のためです。『不安定さ』を放置するわけにはいきません」彼の言葉は、どこかで既に組み立てられていたもので、その裏には数字と計画書が透けて見える。彼の資料の束の間から、小さな封筒がはみ出しているのが窓越しに見えた。封筒には組織名と、開催日時が印刷されている。住民投票と書かれたそれは、静かな銃声のように重い。

渚は手をゆっくりと上げ、布団の端の木製の茶碗に触れた。茶碗は昨夜梢が丁寧に洗ったものだ。指先が器の縁に触れた瞬間、暖かさが広がり、茶碗の表面から小さな蒸気のようなものがふわりと立ち上った。蒸気の中に、まるで小さな影が膝を抱えて座っているように見えた。それは誰かの疲れ――タムラと若林の、そして港の男たちの、ひとときのやすらぎを求める姿だった。影は渚の胸に触れて、滑るように溶けていく。

その瞬間、渚の呼吸が鋭くなり、体内の何かがぐりっと音を立てたように感じた。急に目が覚めたような、でも目を閉じたくなるような矛盾した感覚が押し寄せる。梢の手が渚の手首をぎゅっと掴んだ。渚は笑った――それは安堵の、しかしどこか切ない笑い声だった。

「行くよ」渚はかすれた声で言った。「もう一度だけ。だけど、約束して。誰も焦らないって」

梢の返事はない。光の瞳がぎゅっと細まった。大野が低く頷く。

外の久保田は、封筒を手にして、次の説明会のスライドを開く準備をしている。海霧が窓に張り付いたまま、世界をゆっく