古井戸の村の配達員は隣人の朝を守る 第19話「第17章」
夜風が古井戸の縁を撫でると、堤は手袋越しに冷たい石の感触を確かめた。月は薄く欠け、村の屋根の群れに細い光を差し込ませている。配達袋の重みが胸の辺りに寄り添う。中には、丁寧に拭かれた木のまな板と、柄を削り直したすりこぎ、錆を落として蜜蝋を塗った包丁が収まっていた。どれも、彼が昨夜から仕上げてきた道具だ。
夜風が古井戸の縁を撫でると、堤は手袋越しに冷たい石の感触を確かめた。月は薄く欠け、村の屋根の群れに細い光を差し込ませている。配達袋の重みが胸の辺りに寄り添う。中には、丁寧に拭かれた木のまな板と、柄を削り直したすりこぎ、錆を落として蜜蝋を塗った包丁が収まっていた。どれも、彼が昨夜から仕上げてきた道具だ。
「一度だけだ、堤。」自分に言い聞かせるようにつぶやいた。声は井戸の深みから返る水滴の音にかき消されかける。配達先は村の外れ、長く戸を閉ざしていた小島お琴の家。隣人たちがささやくところによれば、彼女は夕食も簡素にし、朝は布団から出る気力を失っていたという。投票は明日だ。彼女が自分の朝を取り戻さなければ、選択肢は一つ減る。
堤はかばんの中で道具にそっと触れた。自分の持つ力は物に残る疲労と、使う人の「朝の重さ」を一度だけ視える形にする。光や影や、熱のようなものがほんの一瞬に表れるだけだ。万能ではない。急ごうとすれば消えるし、その代わりに堤自身の眠りが奪われる——休めなくなる。だから彼はこれまで使いどころを渋ってきた。
小島家の扉を押すと、重い木の香りとともにかすかな蝋燭の灯が迎えた。室内は整理されてはいるが、色あせた座布団がひとつ、台所の方には空の食器棚が見える。お琴は掘りごたつの端に、小さく縮こまって座っていた。白髪が乱れ、指先は寒さで赤くなっている。
「堤さん……?」声はおぼつかないが、彼女の眼は鋭かった。堤は膝を折り、道具箱を開ける。蜜蝋の匂いと木の暖かさが濡れた空気に混じる。
「お琴さん、久しぶりに朝を作ってみませんか。明日は大事な日だから——無理にとは言いません。ただ、手伝わせてください」堤は言葉を選んだ。自分の力を行使する瞬間、彼はいつも少し震える。決して他人の意志を奪ってはならない。見えるのは疲れであって、選択の答えではない。
彼が包丁をお琴の前の台に置くと、刃先が月光を受けて薄く青白く光った。木のまな板の年輪が、まるで呼吸するかのように分厚い影を押し上げる。すりこぎの先端には、手のひらほどの温度のブロックが現れ、淡い金色の霧のように揺れた。その瞬間、お琴の目が潤んだ。
「……これは……」お琴は手を伸ばして、包丁の柄を撫でた。堤はその手の動きをただ見守った。道具が見せたものは、お琴がこの数年に溜めてきた朝の疲れの断片。毎朝重くて起きられなかった理由、立ち上がるたびに痛む膝、時々手が震えること、そして誰かに迷惑をかけたくないという抑えきれない羞恥。道具はそれを小さな光景にして返した——一度だけ。
お琴の息が深くなる。口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「堤さん、久しぶりにお米を磨いてみようかしら。五十年ぶりかもしれないけれど……」その声は、小さく、しかし確かな決意を帯びていた。灯りの薄い台所に、かすかな希望が差し込む。堤は胸が締めつけられるのを感じた。これで、彼の一回分が消えた。
だが、道具が見せる疲労を引き出すとき、堤の身体には必ず代償が訪れる。いつもはじわじわと現れるのに、今夜は予想しない形で締め付けが始まった。まず手の中の温度感覚が消え、次に視界の端がちらついた。立っているのがふらつくほど足元が取られる。彼は膝をついてしまい、空気が肺を満たすのを待った。
「堤さん、どうしたの?」お琴が心配そうに近づいてきた。距離が近くなると、堤にとってはそれだけで重圧が増した。人の近くにいると、疲労の反響が強くなる。交流する人の朝が重なり、彼はそれを一度に受け止めてしまうのだ。
「大丈夫です、少し休めば……」堤は嘘をついた。呼吸を整えようとするたびに、まるで時間が遅くなるような感覚に襲われた。眠気ではない。身体が「休むことを許さない」——それは、眠らせない、静まらせないという形で現れた。彼は目の前の世界の輪郭がぎゅっと締めつけられ、音が遠ざかるのを感じた。
「堤さん!」外の通りで誰かが叫んだ。堤は声の主の名を聞き取る前に立ち上がった。村の中央の林檎屋、佐々木の子が高熱で苦しんでいるという。母親が助けを求めている。堤は反射的に扉を飛び出した。足下の感覚は鈍く、息はままならない。だが、彼は走り出した。誰かが必要であれば、彼はそこにいるべきだと問答無用に思ってしまう。
走るたびに、彼の内側で何かが白くはげ落ちていく感触がした。急ぐことで、自分のわずかな蓄えを放出している。町はずれの狭い道を曲がると、薬師堂の角に綾が立っていた。彼女は堤の走りを見て眉を寄せる。
「堤、どこに行くの? そんなに慌てて」綾の声は冷静だが、瞳は強かった。彼女は村の若者たちの中で、行動をまとめることを厭わない一人だ。堤は言葉にならないまま首を振った。綾は彼の顔色を見て、表情を変えた。「あんた、無理してるでしょ? 今夜は力を温存するって決めたんじゃないの?」
堤は一瞬、立ち止まった。綾の目には彼の乱れた呼吸と、うっすらと汗ばんだ髪が映っている。彼は自分の衝動の理由を説明しようとしたが、声が出ない。言葉を探していると、背後から小さな泣き声が聞こえた。佐々木家の門口で、幼い透(とおる)がぐったりと座り込み、母親が青ざめた顔で薬を探していた。村人たちも集まってくる。
「堤、まず手を貸して。走るのはやめて」綾は上着を脱ぎ、膝を折って透の顔に触れた。触れた手先からは、彼女の体温が伝わる。綾は医療の資格はないが、応急の知識はある。村で誰もが持つ、互いへの気配りだ。堤は息を整えようとするが、胸の奥で重い違和感が消えない。彼の代わりに誰かが動くことで、彼の負担は分配される——それが本来あるべき形だと、彼は改めて思った。
綾は堤に短く言った。「お琴さんのところは私が見る。あなたはここで休みなさい。明日は長いんだ。それに——」綾は視線を路地の先に投げた。薄闇の中で、複数の車のライトが動いている。村の外れに停まるのは見慣れないワンボックスだ。役所の名札を付けた人間が、その車から数人出てきているのが見えた。
堤は不意に膝がぐらついた。月灯りが彼の視界で波のように揺れる。綾の腕に掴まり、彼はやっと自分が立っていることを保った。足元に広がる砂埃の匂い、林檎の木の葉が擦れる音、遠くで蛙が鳴いた。彼は思考の端で、昨夜自分が道具に込めた小さな「見えるもの」の代価を感じていた。眠りが奪われる、それはただの疲労ではない。心が休むことを拒まれる感覚。身体は動いているのに、心が降りて眠ることができないとき、人は何時間も何時間も針のような孤独を刺される。
「代理投票の手続きだって」綾はささやいた。「役場が、出張で票を集めに来るんだって。高齢者や足の悪い人に説明してるらしい。『便利でしょう』って言葉で、あたしたちの選択を取って行くかもしれない」
透の母親は堤の顔を見て、嗚咽をこらえた。「あの人たちに委ねるのは怖い。誰を信じていいか分からないのに……」
堤は口を開いた。声は砂を噛んだようにざらつく。「禁止だと言ったのに、俺が……」言葉がそこで途切れた。彼は今夜自分が行使した一回の余波の中で、村の明日が大きく揺れているのを感じた。自分の小さな光は、お琴を動かした。だが、それが引き起こした砂煙の中で、別の手が動いている——利便と称して選択を