湖畔の修理屋の管理人は今日は早く帰る 第3話「第2章」
風鈴が細く鳴った。ガラス戸の向こう、湖面は朝の灰色を薄く拭い、背後の山の切れ目から光が差し込もうとしている。泉野晃は作業台に肘をつき、手のひらでソケットの周りについた古い油を拭った。拭いた布は鉄のにおいと湿度の匂いを含んで、指先に冷たく残る。
風鈴が細く鳴った。ガラス戸の向こう、湖面は朝の灰色を薄く拭い、背後の山の切れ目から光が差し込もうとしている。泉野晃は作業台に肘をつき、手のひらでソケットの周りについた古い油を拭った。拭いた布は鉄のにおいと湿度の匂いを含んで、指先に冷たく残る。
「おはようございます、泉野さん」
声の主は、店の向かいにある喫茶「青波(せいは)」の店主、栗原美里だった。エプロンの端に粉砂糖のような白いものが少しついている。美里は朝の仕込みを終えて歩いてきたところらしく、箱を抱えていた。朝靄の中で箱の縁に水滴が光った。
「おはよう。こんな朝にどうしてるんだい、もう仕込みは終わったのか」
「終わったわよ。けど、町の掲示板にまたあの貼り紙が出てたの。『湖沿い再編計画 説明会開催』って。夜の七時からよ」
晃は首をかしげた。説明会の告知は先日も見かけたばかりだ。あの、無機質な白い紙に黒文字。湖を囲む人たちの暮らしにかかわる言葉が、まるで地図の一筆になるように貼られていく。
「それで?」
「で、あなたの店の近くの区画図も出てたって。気にしてた人もいたみたいよ。片岡さんも、昔の話をしてたから……」美里は小さく息をついた。「あなた、無理しないでね」
泉野は小さく笑った。「俺は今日は早く帰るつもりだから。今日に限ってはな」
そのとき、引き戸が勢いよく開いた。自転車に乗った若い女性が、へたりと腰を落とす。肩には子ども用の小さなリュックが一つ、前かごには水筒と折りたたみ傘。額に汗をにじませ、息が上がっている。子どもは傘から顔を出し、店の中をきょろきょろ見回した。
「すみません!すみません、急いでるんですけど、釣り糸を直してもらえますか?」
女性は手に古い小さな巻き取り式の釣り糸機(リール)を差し出した。プラスチックの外装は色あせ、ハンドルは一度欠けたように削れている。先端のラインは絡まり、スプールに細かな錆が残る。
「どのくらい急いでる?」晃は工具箱から小さなドライバーを取り出し、リールを受け取った。指先が器具の冷たさを確かめる。その瞬間、リールから一度だけ、まるで水面に落ちた小石が作る波紋のような感覚が泉野の胸をかすめた。視界の端で、細い光の輪が一瞬だけ膨らみ、消える。
それは彼の能力の反応だった。修理した物に触れた者の「疲れ」が、ひとつだけ映る。映る──と言っても余計な色や文字が見えるわけではない。疲れは波紋の形で、修理する者にだけ、一度だけ見えるのだ。波紋は忙しさ、焦り、眠気、諦めなど、形を変えて映った。泉野はいつもそれを見て、どのくらいゆっくり治せば相手が助かるかを知る。
女性の疲れは細くて先の尖った波紋だった。呼吸の浅さ、手の硬直、何より「急がねば」という焦燥感が鋭く伝わる。説明会に行くのか、問いかける前に女性は口を開いた。
「町会の説明会に行くんです。父がその会で発言するって言って……道具が壊れちゃって。これがないと、子どもたちを連れていけないんです。早くできませんか?」
「父親の発言?」泉野は錆びを削り、絡まりを解きながら答えた。「で、どうしてそのリールがないと子どもを連れていけないんだ?」
「子どもたちに釣り体験の時間があるんです。父が準備物の係で、それがないと場慣らしができないって。説明会場は混むから、準備が必要で……」彼女の声が震えた。「早くお願いします!」
美里がそっと寄り、女性の肩に手を置いた。「落ち着いて。泉野さん、急がせちゃだめよ」
泉野はふと自分の目を見た。先に見えた波紋を思い出す。急げば確かに早く直せる。リールの巻き心地を取り戻すために、潤滑剤を注ぎ、ひびの入ったグリップを瞬時に接着することもできる。だが――。
「今日は早く帰る」──そう自分に言い聞かせているとき、彼は常に自分の力の限界を守らねばならないことを知っている。力を無理に増幅して効果を出すと、力は消える。消えたあとは身体が休めなくなる。眠りが降りてこない。手足が騒ぎ、ひと晩中針で突かれたように覚醒が続くのだ。そうなれば明日も、明後日も、きちんと手を休められなくなる。彼が守りたい「早く帰る」ためには、時に目先の忙しさを断らねばならない。
だが、店を覗く人の視線がその決断を縛る。女性の顔に浮かんだ不安、子どもを預ける責任。説明会での「場慣らし」──それは単なる手伝いではない。地域の声を届けるための場だと彼女は思っている。
「わ、私、急いでるんです!」女性が言い、手を伸ばしてリールを取り返そうとした。指先が触れた瞬間、泉野の中で別の波紋が広がった。先ほどより深く、重い。彼女の疲れは自分だけの焦りではなく、家族の不安、仕事の合間を縫う母親の無理、そして説明会という外部の予定に合わせることでしか生きられない圧だった。
泉野は呼吸を整えた。美里の目がもう一度訴えるようにこちらを見た。
「ゆっくりでいいよ。時間がないならうちで少し待たせるから」と美里が言い、持っていた箱の中から小さな保温ポットを取り出した。「これでお湯を入れて持ってって。落ち着いて行きなさい」
女性は一瞬戸惑い、しかしその手は震えを収めた。見れば、小さな手帳のページに会場の時間を書き込んでいる。泉野はドライバーを置き、針金を解き、リールの内側を覗き込んだ。金属の摩耗と古いグリースの焦げた匂いが鼻腔をくすぐる。指は動く。だが動く速度をゆっくりに調節する。工具を持つ手の振幅を減らし、音を抑え、必要以上に力を入れない。修理は迅速さだけでなく、相手の疲れに合わせることもある。波紋に見た鼓動に寄り添う、という言い方が近い。
「あの……本当に大丈夫なんですか?」女性の声はまだ緊張していた。
「大丈夫だ。時間はかかるかもしれないけど、壊れた部分はちゃんと直す。焦って無理に合わせたら、あとで使えなくなるかもしれないから」泉野は答えた。言葉には厳しさがないよう努めたつもりだが、作業台の上で小さな部品がカチャリと正しい位置にはまる音は、静かな力を含んでいた。
女性は頷いた。彼女はリールを置き、前かごから水筒を取り出した。美里がそこに温かい紅茶を注ぎ、女性に差し出す。女の人は一口飲んで、肩の力が少し落ちたように見えた。
「ありがとう。本当に助かります」彼女はそう言って、説明会に向かうために店を出ていった。自転車の車輪が路面の小石にカツンと当たる音が、遠ざかる。美里は店のドアを半ば閉め、振り返って言った。「あなた、無理しないでね」
泉野は最後のネジを締め、手に残った油を布で拭った。リールは滑らかに回る。だが、胸の奥で何かがひりついた。急がない判断をしたこと自体は正しかった。けれど、外からの圧に晒される人々の焦りは、洪水のようにじわじわと町を満たしていく。彼が一人で留められるものではない。
午前の常連客がぽつぽつと来て店はいつものリズムを取り戻した。だが昼近く、郵便受けに一枚の薄紙が滑り込んでいるのに気づいた。白い封筒に黒いゴム印。封を開けると、区役所名義の簡素な通知だった。
「湖沿い再編計画に関する土地利用調査の告知──当該区域にて、今週金曜日、現地立会いを実施します。立会日時に関しては同封の地図をご確認ください」
地図を広げると、見覚えのある