湖畔の修理屋の管理人は今日は早く帰る

湖畔の修理屋の管理人は今日は早く帰る 第11話「第10章」

修理屋の窓ガラスに、夜の湖が薄く刷毛で塗られたように揺れていた。波の寄せる音は遠く、店の中には時計の針と工具が触れ合う細かな音だけがあった。掌に油の匂いを残して、石坂誠は一つ、また一つと道具を並べていく。刃物、釜蓋、古いラジオのツマミ、潮の行商でへたり切った網の結び目。どれも明日のためだ。

修理屋の窓ガラスに、夜の湖が薄く刷毛で塗られたように揺れていた。波の寄せる音は遠く、店の中には時計の針と工具が触れ合う細かな音だけがあった。掌に油の匂いを残して、石坂誠は一つ、また一つと道具を並べていく。刃物、釜蓋、古いラジオのツマミ、潮の行商でへたり切った網の結び目。どれも明日のためだ。

「誠さん、やりすぎだよ」と、背後から声がする。光里が作業台の隅に座り、手に温かい缶珈琲を持っていた。缶を両手で包む指先から、夜の冷気が立ち上る。

誠は声を返さず、布を取り替え、刃の淵を指で確かめる。磨いたばかりの刃が月明かりにきらりと光った。その光に、わずかだがいつもとは違う細い線が走るように見えた。誠はそれを見て、唇を引き結んだ。

「一度だけにしてくれって、あれほど…」光里は言葉を飲む。彼女は誠の能力を知っている。彼が手入れしたものは、その持ち主が次に使った瞬間に“疲れ”が目に見える形で現れる。一度きり、証拠としての幽かな発光。役所の視察に合わせ、町の人々の疲労を可視化しようという計画をここ数日で詰めてきたのだ。

「分かってる」誠は短く言った。「でも、増やしたいんだ。もっと多くの人に見せたい。役員が来る時間は限られてる。足りないことが一番怖い」

光里の目に瞬きが滲む。「怖いのは…誠さん自身だよ。急げば急ぐほど、あの力は消える。前もそうだったじゃない。休めなくなるって……」

誠は布で最後の錆を拭き取りながら、肩を震わせた。彼の体にはいつも、能力を使うための小さな代償が刻まれている。急ぎすぎれば、能力はまるで水滴に穴が開いたように崩れ、代わりに自分の眠りを奪う。眠れない夜が連なると、身体は簡単に崩れる。だが今は眠る暇がない──それが言い訳のように彼の胸を締めつけた。

「限界は分かってる。だが、今日は早く……帰りたいんだ」誠の声は、いつもの軽い冗談を含んでいなかった。彼が作業台の下に膝まずき、小さな木箱を開ける。中には修理前の古いおもちゃや、糸のほつれたエプロン、研がれたが使い込まれた包丁が詰まっていた。ここ数日で集めた「一度だけの証明」だ。

光里が立ち上がり、浅く息をつく。「ここは、あなたのペースでやる場所なんだよ。急いで何人も助けたつもりで、全部なくしてしまうようなこと、もうやめて」

誠は答えず、代わりに手を動かした。包丁の柄を固く締め、ラジオのつまみを元に戻す。手は正確だが、どこかぎこちない。息が浅くなるのを感じる。時間を節約しようと体を前に傾け、肩に力を入れると、胸の中で小さな違和感が膨らんだ。眼の奥に針が刺さるように、眠気と鋭い覚醒が同時に襲う。脈拍が跳ね、世界が微かに明るくなる。

「誠さん?」光里がかがみ込み、彼の手を軽くつかむ。熱い。誠の手はいつもより熱を帯びていた。

「平気だ」彼は笑った。微笑は短く、硬い。作業を急ぐうちに誠は、能力の成り立ちにまつわる禁忌の端を触れてしまっていた。急ぎすぎると、能力は“見せるもの”としての作用を停止するだけでなく、彼自身から安らぎを奪う──疲労は見えなくなり、疲労する者は休めなくなる。誠はその先をさえぎるように、さらに手を速めた。

夜は更けていく。店の外では、時折トラックの音が遠ざかったり近づいたりする。開発課の宣伝車だろうか。誠はその音を聞いて、脳内に小さな焦りの炎を灯す。彼らは明日の朝、町を巡回し、再編計画の「効率的な配置」を説得する。説得に応じた者には移転補助、協力した工事業者には優遇が約束される。数字と合理で人を押し流す、誠が最も嫌うやり方だ。

彼は磨きを終えるたびに手の中の金属がほのかに光るのを見た。かつてはそれが確かな力の証だった。使われるときに、持ち主の疲れが薄い青の紐となって空中に浮かび、誰の瞳にも見える。だが今、透明な膜が張るように、いくつかの品からその青がこぼれ落ちなくなっているのに気づいた。

「やっぱり……」光里の声が震えた。誠は答えず、ただ作業台に額をつけて息を整える。額に冷たい汗が滲んでいる。

「どうしたいんだ、本当に」光里は低く問うた。「全部か、それとも少し残すか。あなたの体か、証拠か。もう選べ」

誠は手を止め、外の夜風に顔を向けた。湖が濡れた墨のように冷たく光る。目の前に並ぶ修理済みの一群は、明日を待つ証拠としては十分な数に思えたが、誠の胸にはまだ不安が残っていた。能力が一度にたくさんの物に宿ることはできる。だが急ぎすぎれば、それらは消える。消えた時に待つのは、彼自身の眠りが閉ざされること。そして眠れない日々は、誠の判断力を蝕む。

「全部を今日中に出すつもりだった」誠はつぶやいた。「でも……」

「やめよう」光里が言った。「明日の朝に最も必要なものだけを残そう。あとは僕らの言葉で補う。誠さん一人に全部を託すなんて、ずるいよ」

言葉は優しく、しかし固かった。光里の言葉を聞いて誠はぶるりと震えた。彼は自分が“ずるい”存在であることを知っていた。能力は便利で危険な道具だった。頼られれば、つい力を注ぎ込みすぎる。注ぎすぎた先に残るのは、理由を見失った助けと、その代償に押しつぶされた自分自身だ。

作業台の上で、彼は数を減らす決断をした。包丁三本、古い鉄製の湯沸かし器一つ、漁網の一部分、そして子供の木の車輪。これだけが、“一度だけの証拠”として残された。

その時、外のドアが静かに開いた。大野潮が入ってきた。潮は海風の匂いをまとい、潮に焼けた手がそのままの形で誠の前に置かれた。彼の顔は青褪めているわけではないが、眠りの欠如が刻んだ線が目の周りに現れていた。潮は町で最も声の大きい漁師ではない。だが人一倍に静かな骨のある男だ。

「誠、お前はやりすぎだ。だが、俺はやる」潮は言った。声は低く、揺るぎない。彼は修理済みの網の端を手で撫でた。指先に残る繊維の冷たさ。潮はゆっくりと息を吐く。

「お前がそれを一度で見せるんだな」誠が訊いた。声はほとんど紙のしわのようだった。

潮はうなずいた。「役人どもにあの“青”を見せてやる。俺は朝一番で船に乗る。港で仕事してるところを見せれば、あいつらも事務所の机の上で聞く数字とは違うものが見えるはずだ」

「でも、もし――」誠は言葉を切った。光里が前に出た。「誠さん、あなたが全部を出さないと決めたのは正しいよ。潮さん、あんたは自分の体でやる覚悟があるか?」

潮は笑った。笑いは短く、やけに年季が入って見えた。「覚悟って言うなら、俺は昔から毎朝海に出る覚悟をしてきた。休めないってのがどんな気持ちかも知ってる。だけどな、誠さん、あんた一人の力に頼るのはもう終わりだろ? お前が倒れたら、俺らが代わりに立つ。今日はお前の力がどれくらいあるかの試金石だ。だが、それが消えるなら、俺らの声で補う」

誠の目に何かが光る。熱さが肩まで上がってくる。眠気は薄れ、代わりに自分が引き起こした流れの大きさに押し潰されそうな気持ちが湧いた。

「潮さん…」光里が低くつぶやく。店の奥の壁に掛かった古い時計が、深い音で一つだけ刻を刻んだ。

誠はゆっくりと立ち上がり、修理台から最後の包丁を手に取った。刃先が月光を受けて細く光った。彼はその刃を光里に差し出すようにして手渡すと、背を向いて窓の方へ歩いた。外