礼拝堂の宮廷書記と敵役貴公子は自分の物語を選ぶ

礼拝堂の宮廷書記と敵役貴公子は自分の物語を選ぶ 第10話「第9章」

廊下は月光に切り裂かれていた。長い石の床に斜めの光が入って、二人の影を細く伸ばす。礼拝堂の回廊は普段よりも静かで、残り香のろうそくと古い紙の匂いが混ざっていた。クラリスは足を止め、凍るような空気に手を擦り合わせる。向かい側に立つセリュスは、宙を見渡すことなく、ただ静かに呼吸をしていた。鎧の響きはない。彼の表情はいつもの冷たい輪郭を保ちながらも、瞳の端にひとかけの疲労と守るべきものへの覚悟が見えた。

廊下は月光に切り裂かれていた。長い石の床に斜めの光が入って、二人の影を細く伸ばす。礼拝堂の回廊は普段よりも静かで、残り香のろうそくと古い紙の匂いが混ざっていた。クラリスは足を止め、凍るような空気に手を擦り合わせる。向かい側に立つセリュスは、宙を見渡すことなく、ただ静かに呼吸をしていた。鎧の響きはない。彼の表情はいつもの冷たい輪郭を保ちながらも、瞳の端にひとかけの疲労と守るべきものへの覚悟が見えた。

「遅れたな」とセリュスが低く言う。声は回廊の壁に吸い込まれ、余韻だけが残る。

「鍵を持ってくるべきだったかもしれない」とクラリスは答えた。肌に当たる月光が冷たい。彼女の手には、小さな筆箱ほどの羊皮の包みが収まっている。中身は古い写本の写し、そして彼女が必要とするときにだけ使う印章――だが今夜はそれを使わないつもりで来た。

セリュスはゆっくりと肩を緩め、回廊の奥へと視線を向ける。「イリナはそこにいる。明日、記録台の前に出されるらしい。記録長は手を変え品を変え、家系の"定義"を固定しようとしている。彼女をそのまま放っておけないんだ」

クラリスの心臓が跳ねた。イリナ——セリュスの幼い妹の名は、幾度か噂に上っていた。彼女の存在が、セリュスの厳格さと冷淡さの裏にある弱点であることも。だが噂は真実を語らない。月明かりの下、セリュスの手が僅かに震えたのをクラリスは見逃さなかった。

「記録台の改竄は危険だ」とクラリスは囁く。「記録長の守りは堅い。だが……」彼女は包みを指で探り、古びた写しを取り出す。蛍光の薄い紙の上に、書き付けられた文言がひかっている。「条文の矛盾は、当事者全員の『合意による読み替え』によってのみ無効化される、と私は読む」

セリュスは紙を覗き込むと、眉をひそめた。「文言は美しいが、誰がその合意を取る? 高位の長老たちは記録長と通じている。貴女の方法は、だいたいいつも口先と説得だ。今回はそれで足りると?」

クラリスは答えず、回廊の端にある小さな扉を指した。そこが聖歌隊の控え室で、控え室の裏には、今日の礼拝で使われた判決録の仮置き場がある。書類はまだ整理されきっておらず、夜番の目が届きにくい。二人は音を立てずに扉を抜けた。

控え室は薄暗く、ベンチに残されたワックスの破片が月光で煌めく。クラリスは息を抑えながら表紙をめくり、判決録の綴りの隙間に手を突っ込んだ。指先に紙の冷たさが触れ、古い血印の痕が黒光りしていた。そこに、記録長の個人的な符印が押してある——赤い蝋の小さな円に刻まれた、「不変」を示す印だ。

「血印だ」セリュスが吐き捨てるように言った。「見せられた者の家系と血縁を結ぶ。表向きは象徴だが、実際には法の効力を補強する。ここまで来るとはな」

クラリスは指先で蝋の縁をなぞった。冷たさが伝わる。長年の書付けが織りなすこの制度の骨が、単なる文章以上のものになっていることを彼女は理解した。彼女の能力は"文書の矛盾を、当事者全員の合意で読み替える"ことだった。だが血印は、読み替えの前提すら封じてしまう。

「それでも、やる」とセリュスが言った。「イリナは自分の意志がまだある。俺がそれを奪わせはしない」

「"自分の意志"があっても、彼女は十二歳だ。記録台は"未成年の判断は保護者に委ねる"とある」クラリスは項を指した。「ここが問題。本当に彼女の同意だけで読み替えができるのか。もし保護者が同意しないなら、合意は成立しない」

セリュスは大きく息を吐く。「だから、説得だろう? 貴女の得意分野だ」

クラリスは苦笑した。「得意だが、万能ではない。覚えているか、セリュス。私が誰かの運命を一方的に決めれば、私の"選択肢"がひとつ減る。代償がある」

セリュスはその言葉に沈黙した。回廊の隅で、遠く鐘が一度鳴った。クラリスは続けた。「選択肢の消失は体感として分かる。最初は指先のしびれ、次に記憶の一片が薄れる。小さな代償だと言う人もいるが、一つ失うごとに私が選べる未来の幅が狭くなる。それでも無理に奪うか?」

セリュスの顔に、感情の波紋が走った。彼は答えを出す前に、控え室の奥に眠る小さな布袋に手を伸ばした。取り出したのは、小さな銀の髪飾りだ。娘の髪につけるものだろう。彼の指先が飾りをつまむと、わずかに震えが伝わった。

「俺は、彼女の意志を奪わせたくない」とセリュスは低く言った。「だが、選べない者を作る制度は許せない。もしもお前が代償を払うなら……俺はそれを止められない」

クラリスは彼の言葉を聞き、目を閉じた。選択肢が一つ減る未来を想像する。夕餉の食卓で笑う日々の匂い、まだ見ぬ誰かの手を取る未来の温度。彼女はそのどれかを失うことを、はかりかねた。しかし、眼前のイリナの声を想うと、決断は険しくも速く降りてきた。

「まずは試す。強引にはしない」クラリスはそう言って、紙をめくり続けた。「今夜は、記録長にだけは見つからないように、"合意の欠片"を作る。わずかな文言の補注――誰もが読み替えを議題にできる手続きを、暫定的に設ける。単なる付箋だ。永続する法にはしない。だが議題さえ立てば、合意の場が生まれる。そこにイリナの声を連れていけるかもしれない」

セリュスは短く笑った。「君の得意と俺の威圧を合わせれば、議題にはなるだろう。だが記録長はそれを見逃さない。見つかれば——」

「見つかれば、そのときにどうするか決めればいい」とクラリスは言った。「"後で"の選択肢を残すのも、私の仕事だ」

二人は控え室から出ると、静かに筆を取り、既存の文言に小さな注記を挟み込んだ。それは滑稽に慎重な作業だった。クラリスの手は震えず、彼女の書く文字はいつもどおりに冷静だった。注記はこう綴られているように見える——《当該文書に示される家系的拘束力の読み替えは、当事者全員の公表された意思表示を以て暫定的に議題にあげられ得る》。言葉は曖昧だが、それが目的だった。議題は起きる。

だが作業が終わるその瞬間、クラリスの耳に小さな音が入った。控え室の扉の向こう、床に落ちる紙片のかすかな擦れる音。三人分ほどの足音が近づいている。記録台の守りの者か、それとも巡回の神父か。二人は呼吸を殺し、影に潜んだ。

扉が軽く開き、若い聖歌隊員が顔を覗かせた。少年の目はぎょろりとし、一瞬で二人を見破る。手には小さな紙束を抱えている。少年は狼狽した様子で申し訳なさそうに言った。「す、すみません。夜の練習の後片付けを忘れて——」

クラリスは少年の顔を見て、彼が今朝まで礼拝で歌っていた子であることに気づく。目のくぼみ、震える唇。彼は、明日の調整で"更生を要する"とされた者たちの代表として、名簿に名を連ねていた。彼の運命もまた、制度の網の中だ。

少年の手が紙束を落とし、そこから一枚が床に滑った。そこに記された文字列が、クラリスの胃を締め付ける——「未成年者による精神的抵抗は法的効力を有しない」。彼はまだ自分の意志が選べる年齢ではないと、制度は決めている。

クラリスは取るべき道を二つに分けて考えた。ひとつは、自分の力で少年の名を即時に読み替え、延命を勝ち取ること。だがそれは一方的な行為で、彼女のどの選択肢かを一つ消費する。もうひとつは、少年や彼の保護者、その場にい