温室の宮廷書記と敵役貴公子は黒幕の花嫁にならない

温室の宮廷書記と敵役貴公子は黒幕の花嫁にならない 第26話「第24章」

温室の空気はいつもより厚かった。硝子越しの昼光が葉の縁を金色に染め、蒸気が石畳に小さな鏡をつくる。セレナは掌に伝わる湿り気を感じながら、中央の円形台座に置かれた古い文書を見下ろした。頁の縁は羊皮紙のように黄ばんで、墨は何度も擦られたせいで点の輪郭が滲んでいる。それが、今日――彼らが争っている「法」の核だった。

温室の空気はいつもより厚かった。硝子越しの昼光が葉の縁を金色に染め、蒸気が石畳に小さな鏡をつくる。セレナは掌に伝わる湿り気を感じながら、中央の円形台座に置かれた古い文書を見下ろした。頁の縁は羊皮紙のように黄ばんで、墨は何度も擦られたせいで点の輪郭が滲んでいる。それが、今日――彼らが争っている「法」の核だった。

「ここに残された句の意味を改めるなら、全員の同意が要る。そう覚えているはずだ、セレナ書記」──大法記官カインの声が冷たく、鉛のように室内に沈む。黒縁の眼鏡が曇り、彼の息が硝子に一瞬の斑点を描く。

「カイン閣下、同意の要件は変えられません。だが――」セレナは口を開きかけて、顔を上げた。彼女の周りには選ばれた者たちが輪になって立っている。ローレンツ・ヴァレンティンはその中で最も目立たず、しかし存在感を放っていた。肩にかかった外套はよく手入れされているが、彼の手首には昨日の拘束の痕がまだ赤く残っている。

「あなたの肩書きが書記だからといって、日和見で済む話ではない」ローレンツが言った。声に怒りと疲労と、どこか諦観が混じる。「僕を、黒幕の『花嫁』という名目で差し出す。形式がどうあれ、これが僕の運命だと定めるのなら、それは僕の意思を奪うことだ」

「そうならないようにするのよ」ユナが前に出た。小柄だが目は鋭い。彼女は朝から文書に目を通していた一人で、同意のひとつになってくれるはずだった。「セレナ、私たちは合意で読み替えをすると約束したでしょう。ここで折れたら相手――制度の勝ちよ」

だが、マールが首を振った。長い手紙差し(し)が膝にぶら下がり、その先端が地面に触れて小さく音を立てる。「家族の名が出る條文は、僕には同意できない。うちの家は、もし反旗を翻せば清算される。僕は――」言葉を詰まらせ、視線を落とした。彼の目の端が震える。合意の輪に亀裂が生じる一瞬だった。

セレナは文書に触れた。紙の冷たさが掌にしみる。彼女の技能――「制度文書を当事者全員の合意で読み替える」力は、言葉通りに機械的ではなかった。合意が整わない場合、強行で読み替えを行うことはできる。だが、その代償は――彼女自身が以前から胸に刻んでいた、痛い制約だった。

「全員の同意がない。だが、このままローレンツを差し出すのは許せない」セレナの声は震えていた。声の震えは、温室の湿気に混じって立ち上る蒸気のように見えた。誰も同意しない局面で自分がどう決断するか、それが彼女の選択の核心だ。

「セレナ、やめろ」カインが割って入る。「一方的な読み替えは、書記の権能を越える。法に基づかぬ手段は、後の混乱を招く」

「法に基づかない」とローレンツが口を噤む。彼の唇の端に小さな血の跡があった。先刻の取り調べの際についたものだろう。彼はそれを気にするそぶりを見せず、ただセレナだけを見つめる。

決断の瞬間、セレナは自分の胸元に指を伸ばした。そこには小さな革の袋が縛られている。袋の中には色とりどりの糸札が入っていた。昔、彼女が自分の進路を占う遊びとして作ったものだが、奇妙にもそれは彼女の技能の可視化となっていた。一つ一つの紐札は「選択肢」を象徴している。遠い師が冗談交じりに言った言葉が、いつの間にか儀式のように彼女の皮膚に馴染んでいたのだ。

「私がこれを使えば――」セレナは指先で一つの紐札を取り出した。緑の糸だ。自然に対する選択肢、逃げる道だと彼女はかつて名付けていた。紐を親指と人差し指で挟むと、周囲が静まるのがわかる。温室の葉のざわめきさえも止んだように感じた。

「同意が得られない場合、私が読み替えを行います」セレナは言い切った。言葉を紡ぐと、紙の上の墨がふわりと浮くように見えた。だがそれは同時に、紐札の色が濃くなり、微かな光を放つ。そして、彼女の胸の内側から――何かが引きちぎられるような痛みが走った。

紐札が熱を帯び、細い糸が指先で焦げる嗅ぎがした。ユナが思わず顔をしかめる。マールは顔から血の気が引いた。カインは即座に手を伸ばしたが、セレナは紐を素早く引き抜いた。糸はぽろりと取れて床に落ち、茶色い埃に紛れて灰になった。音は小鳥の骨が折れるような、かすかな裂け目の音だった。

「これが代償だ」彼女は低く言った。胸のどこかにぽっかりと穴が空いた気がする。消えた紐札は決して戻らない。選択肢が一つ減ったのだということが、身体の奥に重く沈んだ。

それでも――ローレンツは助かった。セレナが紙に向けて新たな読み替えを宣言すると、文書に書かれた古い句が震え、墨の濃淡が入れ替わる。言葉が意味を変え、かつて「花嫁選定」と読めた箇所に新しい言葉が浮かび上がる。「当該候補者の意思確認と合意を必須とする」と。

周りの者の顔が変わった。カインは唇をゆがめてその場に立ち尽くす。マールは膝をつきそうになったが、ユナが腕を掴んで支えた。ローレンツはじっとそれを見つめ、目の奥で何か崩れる音が聞こえるようだった。

「君は、何を失ったのか」ローレンツが静かに尋ねる。

セレナは首を振った。胸の穴は疼き、思い出の断片がかすかに曇る感覚があった。紐札に込めた――違う未来の断片だ。誰かの運命を奪わずにすんだ代わりに、彼女は自分の選べる未来のひとつを放棄した。放棄されたその選択は、逃げ道だったのかもしれないし、あるいは「何もしない」という権利だったかもしれない。今は判然としない。だが確かなのは、そこに空白ができたことだ。

「あなたはそれをどう考える?」ユナが尋ねる。彼女の声には、安堵だけでなく問いかけも含まれている。仲間は皆、自分の意思で賛成した者もいれば、できなかった者もいた。セレナの行為は、彼らの自律を奪ったのではない。むしろ、マールの拒否を受けてなお彼女が選んだ結果だ。だがその選択の果てに何が残るのかはまだ測れない。

「僕は、君が犠牲を払ったとは思わない」ローレンツはゆっくり言った。「君は僕の意思を守ってくれた。僕はそれだけで充分だ」

その言葉にセレナの胸は締め付けられた。救われたことの重さと、自分が何を失ったかの怖さが入り混じる。彼女は視線を台座の文書に戻す。読み替えは成立した。しかし周縁の人物たちの顔には、まだ不安が残る。制度の根は深く、書き換えられた一行だけで全てが変わるわけではない。やがてどこかで別の条文が、別の形で同じ力を取り戻すだろう。

「これで済んだわけじゃない」カインが言って、手にしていた書巻を軽く叩いた。紙が乾いた音を立てる。「今回の読み替えは無効を主張する声がいくつか出るだろう。上級審は動く。勢力は裂ける。セレナ書記、お前が行使した手段の代償は我々が把握していない」

「私は代償を知っている」彼女ははっきりと答えた。胸の欠落が冷たく、鼓動が不均等に跳ねる。紐札の残りはまだいくつかある。数えると、五つ。五つの選択肢。五回の代償を払えば、もっと多くの運命を左右できる。だがその度に、彼女の未来の何かが減る。

「残された選択肢は、どう使う?」ユナが囁く。質問はセレナだけでなく、全員に向けられているようだった。仲間たちは自分の意志で前に出て、賛成した者もいれば反対した者もいる。彼らの主体性が、セレナの決断を支えたのだ。

ふと、温室の外の門の方から急ぎ