肖像画の悪役令息は恋愛フラグを無視する

肖像画の悪役令息は恋愛フラグを無視する 第22話「第20章」

朝靄が長い並木を薄く包む頃、広場にはすでに人の波と木の香が混じっていた。大きなテントが列をなし、その背後からは職人たちの金槌の音と、帆布を擦る皮の匂いが立ちのぼる。並木の中央をすっと貫く回廊――肖像回廊と呼ばれる屋根付きの通路には、古い額縁が次々に据え直されていた。額縁の金縁はまだ柔らかい油で光り、絵の表面にかすかな埃が落ちると、修復者が黙って払った。

朝靄が長い並木を薄く包む頃、広場にはすでに人の波と木の香が混じっていた。大きなテントが列をなし、その背後からは職人たちの金槌の音と、帆布を擦る皮の匂いが立ちのぼる。並木の中央をすっと貫く回廊――肖像回廊と呼ばれる屋根付きの通路には、古い額縁が次々に据え直されていた。額縁の金縁はまだ柔らかい油で光り、絵の表面にかすかな埃が落ちると、修復者が黙って払った。

「ここが、判定式の主会場になるんだな」とフェンが呟く。彼は肩に縄を掛け、最後の椅子を運ぶ役をしている。長い並木が作る影と午前の陽光が交錯して、肖像たちの目元を不気味に立体化していた。

コルは回廊に沿って歩きながら、額縁の縁に指を触れた。絵画からは遠い時代の香り、油と樟脳の混合した匂いがした。どの顔も、いつか誰かに裁かれたことのある者のそれだ。彼らの視線は壁に固定されているはずなのに、今朝の光のせいか、生気よりも重い「意志」を宿して見える。

「儀典長から連絡が来た。『式は慣例に従う』って。追加の代表招集は認めない、だと」ミアが短い紙片を折りたたんで見せる。彼女の声には抑えきれない苛立ちが混じっていた。ミアは古文書の写しを抱え、判定式の文言の矛盾を示す図を胸の前で広げる。

「慣例だって?」コルは額縁に触れた指を引き、紙を受け取る。そこには古い式典章の複数の条文が並んでいる。上の条文は判定を『世襲の評議』に委ねるとあり、下の条文には『評議の合意が公の承認を得る場合に限る』という一行が、微かな筆跡で追記されている。追記には署名がない。年号もずれている。矛盾の痕跡が、はっきりと示されていた。

「僕のやり方なら、読み替えて合意の枠を広げられる。各地の代表を招き、評議の『公』を拡張すれば儀典長の正当性そのものを問い直せる」とコルは言った。声は低いが、確信がこもっていた。彼は条解の術――古い制度文書の矛盾を拾い上げ、当事者全員の合意の形で読み替える技術を使ってきた。ただし、いつもは当事者全員の同意を取り付けてから実行する。強引な一手は、必ず何かを削る。

「問題は、儀典長が同意しないことだ」とリアが言う。彼女は判定式の設営を仕切る一人で、口元に戦略家らしい厳しさを漂わせていた。「彼は式の根幹を守ると公言した。公と合意を拡張する案は、彼には式そのものを壊すように見えるだろう。ここで彼を外せば、正当性を失って逆手に取られるかもしれない」

「逆に、彼を通せば代表は公式には入れない。会場は空席ばかりになって、儀典長の言う『公』だけが残る」ミアが眉を寄せる。彼女の手元の写しは、追記の行が消去可能だと示す余白を指す。コルの能力は、余白の介入を得意とする。だが余白に手を入れるには、誰かの同意が必要なのだ。あるいは、同意の代わりに単独の宣言をするか。

「どうする、コル?」フェンが尋ねる。彼はまだ若く、その口調には緊張が滲んでいた。

コルは額縁の一つに顔を寄せる。絵の中の男は若い声の耳を突くように見下ろしていた。額縁の木肌は冷たく、そこに触れた掌に微かな震えが伝わる。決断は早かった。

「まずは代表の招集を急ぐ。南方の代議者デーン爺さんは来ると言った。商工組合の連署も取る。賛同が集まれば、読み替えは『合意の事実』として成立する。だが、もし儀典長が物理的に会場を封鎖しようとするなら、僕は一手、独りで条文を切り替える」

ミアがそれを聞いて、顔色を変えた。「一人で? コル、それは――」

「代償があることは知ってる」コルは軽く手を振る。だが彼の声には、普段よりも濃い影が差していた。「一方的に誰かの運命を決める形で読み替えを行うと、僕は自分の選択肢を一つ失う。毎回のことだ。だが今回は――そうするしかない場面が来るかもしれない」

「選択肢を失うって、具体的に?」フェンが詰め寄る。仲間たちはコルがDたびに払ってきた代償について断片的に知っている。だが完全な形では見ていない。

コルは手のひらを上に向けた。そこには古い皮の紐で留められた、小さな石板が乗っているように見えた。実際にはそこに何も置かれていない。彼はそれを見せることはしなかったが、言葉で説明した。「僕はいつも、自分の『可能性の数』を一つ失う。戻って来ない。たとえば──次に誰かの運命を単独で決めると、僕はある拒否権を失う。拒否できない状況が一つ生まれる。今回はその拒否権を、判定式を開かせるために投げるつもりだ」

リアの眉が釣り上がった。「つまり、あなたが『断罪の役』を拒否できなくなる可能性もあるってこと?」

「可能性はある。確定はしていない」コルは答えた。「代償は具体的に現れるまで、誰にも正確には分からない。ただし、いつも重い代価だ」

仲間の間につんとした空気が落ちた。並木の葉が揺れ、肖像回廊の陰がざわめく。修復者が道具を下ろし、遠くで小鳥がひかえめに鳴いた。コルは自分の手のひらにできた緊張を感じた。

「でも、儀典長を黙らせるには、まず現場での『合意の表明』が必要だ」とミアが静かに言う。「だから南方の代表がここに来るまでに、僕たちは会場の包囲を抑え、証拠となる文書を用意し、署名を受け取り、会場の規定を示す。そしたら、彼の『慣例』も覆せる」

コルはうなずいた。仲間たちはそれぞれに動き出す。リアは伝令を走らせ、フェンは椅子の並びを最後の確認に掛かった。ミアは古文書を更に精査するために帳簿のあるテントへ駆け、コルは肖像回廊を歩いて古い絵と目を合わせた。

午後の気温が上がり、額縁の金が陽光を受けて眩しくなる時、予定外の出来事が起きた。正午の太鼓が鳴り終わると、広場の入口に黒い騎乗列が現れた。儀典長ハルトの随員だった。彼らは怜悧な顔つきで、一本の木箱を慎重に運び込んだ。木箱には縛り紐と、光る封印があった。

「それは?」デーンが指差す。デーンは南方の代表で、皮の手袋に古い印章を打っている男だ。彼が近づくと、随員の一人が箱に貼られた文言を読み上げた。

「『証物:式の正式付属肖像』――儀典長の申請により、判定式とともに裁定の証として持ち込まれるもの。中身の肖像は、式当日に評議の前で開示され、評議の判断補助として用いられる」

箱が裂かれるような音で開けられ、黒布が外された。中には、キャンバスにくるまれた肖像画が横たわっていた。額縁はまだ付けられていない。布を外した瞬間、空気が変わった。絵の表面からは、どこか金属的な冷たさと、人間の髪の匂いのような温度感が感じられた。コルの手に鳥肌が立つ。

「儀典長は直接、肖像を評議に差し出すつもりだ。しかもそれを『補助』とする。実質、肖像そのものが評議の根拠になるということだ」とハルトが穏やかに言った。彼は中年の男で、顔に皺が深く刻まれている。声は低く、周囲を無言で支配した。

「肖像が――評議の根拠?」リアが息を詰める。周囲の職人たちが足を止め、額縁にかぶせられた布の下で顔をひそめる。

「古来、肖像は家名と役割の象徴とされている。だが、それを式の判断材料として持ち出すのは、新手の暴挙だ」ミアの言葉は震えていた。彼女は慌てて箱の横にしゃがみ、布の隅に触れてみたが、指先には冷たさしか伝わってこない。

コルは木箱に近づき、布の端を掴んだ。何かに駆り立てられるように、内側を