肖像画の悪役令息は恋愛フラグを無視する 第20話「第18章」
人垣の向こうで、肖像画の縁が揺れた。薄暮の空に立てられた木竿に、絵布が風を受けて波打つ。群衆は波のように押し寄せ、ほとんど祭りのようなざわめきの中に怒号が混じる。松明の油の匂い、湿った石畳の冷気、遠くで鉄の鎖が鳴る音が入り混じって、広場は生き物のように震えていた。
人垣の向こうで、肖像画の縁が揺れた。薄暮の空に立てられた木竿に、絵布が風を受けて波打つ。群衆は波のように押し寄せ、ほとんど祭りのようなざわめきの中に怒号が混じる。松明の油の匂い、湿った石畳の冷気、遠くで鉄の鎖が鳴る音が入り混じって、広場は生き物のように震えていた。
「秩序を守れ! 古き伝えを崩すな!」
叫ぶ声の先頭には、儀典長の紋章が縫い付けられた暗い鞄を振る男がいた。彼らは保守派の暴徒ではなく、家族や伝統の担い手を自称する人々で、肖像画に刻まれた「筋書き」を守れと主張していた。支持者達が掲げる肖像画のシルエットが、群集の動きとともに重なり合い、まるで黒い帆が広場を覆うように見えた。
コルは胸の前で古い文書を握り締めた。羊皮紙に綴られた条文はあちこちに修正の跡があり、文字は長い年月の指先に擦り切れている。それでもそこには、肖像の扱いについての矛盾がはっきりと残っていた。――「肖像に刻まれし役割は、当事者の明示なる同意により読み替え可能なれど、公共の安寧を害する行為はこれを禁ずる」別の条項では「古来の記録は最優先にして改変を許さず」とある。矛盾は、意志の隙間になっていた。
「エラ、人数を数えて。署名の列を止めないでくれ」コルが低く命じると、エラはきびきびと頷き、携えた帳面を広げて歩き始めた。帳面には、地元の小字ごとの代表者の名前が並ぶ。彼女の声が通るたびに、同意を示す掌と指輪が差し出される。
リアは絵布の近くに身を投じ、腕を伸ばして木竿を押さえた。リアの顔は汗で光り、口元には決意が張り付いている。「こっちを守る! 皆に逃げ道を作る!」彼女の声は小さく鋭かった。ミルダンはその背後で重たいコートを振り払い、群衆の間を割っていく。彼の手は古い兵士の癖で、脇差の柄に当たるが、刃を抜く気配はない。サドロは肖像画の一つに寄り添い、絵布の縁に指を滑らせて布を引き寄せる。暴徒の多くは、肖像そのものを破ることはためらっていた――肖像を汚すことが禁忌だと信じているからだ。
「やめろ! この場は法を犯している!」暴徒の先頭がコルに向けて詰め寄る。彼の指先は、慣れたように儀典長の小紋を探していた。まるで象徴を血で洗い流すことができるとでも信じているかのように。
コルは文書を掲げ、声を張る。「ここに明記されている。肖像の読み替えは、当事者全員の合意を以てのみ行われる。しかし合意とは静かな筆跡のようなものではない。明確な意志と、集まった人々の理解が要る。――今、ここにいる者たちの同意を以て、肖像の役割を一時的に保留することを提案する」
言葉は空気を切り裂いた。群衆のざわめきが一瞬止まる。誰かが――小さな子どもを抱えた女が、手を差し出した。掌の傷、労働の跡。彼女の目ははっきりしていた。「私が同意する。息子を苛めから解放してほしい」と言う。そうして一つ、また一つと手が差し出される。コルは指先で羊皮紙の縁を押さえ、署名帳に押された印や指紋を見た。これが「当事者全員の同意」を積み重ねるということだ。
だが群衆の端から、冷ややかな笑いが漏れる。「合意? 誰がその同意を確かめるのだ? お前が勝手に読むのだろう?」先頭の男が一歩踏み出し、鞄を振った。彼の瞳は嘲りにかがやく。儀典長の力は、形のない恐怖と名誉の重圧を操る。それは個人を越え、制度そのものに根を張っていた。
コルは静かに息を吸った。文書を声に出して読み上げるのは、彼の能力の発動方法だ。古い制度文書の矛盾を、当事者の合意という形に書き換えて「交渉する」。しかし条件がある――全員の同意がなければ、読み替えは無効だ。合意が得られない場合、彼は――前と同じく、最後の手段を使うことができる。誰かの運命を一方的に決めることができる。ただし、それを行使したならば、彼自身の選択肢が一つ減る。何を失うのかはいつも異なる。代償は体系の中で予測できないが、確かに奪われる。
暴徒の先頭がさらに近づく。リアが木竿に手を掛けて踏ん張る。ミルダンが押し戻される瞬間、子どもが転び、石畳に膝を打つ。群衆の中で一瞬、恐怖が波打つ——同意の列は乱れ、声が恐怖でかき消される。
コルは一瞬、視界が白くなった。幼い日の記憶ではない。決断の冷たさだ。もしここで合意を待っていたら、誰かが怪我をする。儀典長の男はその隙をついて法の名のもとに裁きを呼び、集会を解体するだろう。仲間が散り散りになれば、支え合う力は消えてしまう。彼は見た。人々の顔が、まるで肖像の影の中で凍る瞬間を。
「いいだろう」コルは低く言った。言葉にした瞬間、空気に糸が走るような音が耳を裂いた。彼は手のひらを掲げ、文書の条項を一語一語読み替えた。だが今回は違った。合意を得ずに、彼はその条項を「宣告」した。言葉は古い律法の重みを帯び、群衆に降りかかる。木の杭、絵布の縁、握られた手が震えた。
代償はすぐにやってきた。右手の親指の付け根を中心に、冷たい刺し傷のような痛みが走り、胸の奥で何かが切れる音がした。コルは文書を落としかけたが、踏ん張って紙を掴んだまま立ち続けた。手の中の肖像画の一枚——自分が常に携えていた家の肖像が、色を失い、絵の表面に細い裂け目が走るのが見えた。裂け目はまるで、紙を越えて何かを引き裂いたようだった。
「コル!」リアの呼び声が背後から響く。彼女の顔には恐れと憤りが交差していた。彼は振り向かずに、裂けた肖像に視線を戻す。表面の絵が、微かに揺らいでいる。見誤ったのではない。肖像は、ただの絵ではなく、何かを内包しているらしい。裂け目から、影が差し込んだように見えた。群衆の中から、ざわめきが一段と大きくなる。
「どうしたの? 大丈夫か?」エラが近づいてきて、コルの腕を支えた。彼女の瞳が裂け目に釘づけになる。「それは……その肖像、何かを奪ったのかもしれない」
奪われたのは確かに選択肢だった。身体の痛みは引き、代わりに胸の内にぽっかりと空いた穴ができていた。いつかの選択が、そこにあったはずだ。コルははっきりと感じた。これから、あの裂けた肖像の扱いに関して、自分は一つの道を選べなくなった。何を選べないのか、言葉にはならないけれど、それが自分の自由の一片を奪ったことだけは確かだった。
「今は退く。皆を安全な屋根の下へ誘導するんだ」コルは指示を出した。ミルダンがその声を受け、リアは子どもを抱き上げ、群衆の中に小さな開場を作っていく。暴徒は一時退いた。儀典長の仲間は、咳払いをして遠巻きに様子を窺う。だが、先頭の男はまだ笑っている。彼の笑みは、勝利を確信している者のものだった。
「よくやった。だが忘れるな、コル。お前が一度権力を振るえば、その代償はいつか必ず跳ね返る」男の声は冷たかった。群衆の重みは残るが、危機は当面回避された。支持者たちの顔には安堵が滲み、誰かが小さな拍手をした。拍手はすぐに同意を表明する手の数へと変わり、それが確かな連帯の証のように広がった。
コルは裂けた肖像を胸に戻した。裂け目は深まったように見えるが、同時に中からかすかな光が溢れているようにも見える。光は暖かく、呼吸に合わせて明滅する。彼はその光を見て、初めて気づいた。肖像は単なる象徴ではなく、個人の選択を縛る器具でもあり、同時にそこに入れた意思を