肖像画の悪役令息は恋愛フラグを無視する

肖像画の悪役令息は恋愛フラグを無視する 第12話「第11章」

広場の空気が揺れる。昼の陽が肖像布に透け、古い顔立ちがつよく浮き上がる。風がひと吹きするたび、帆布のように張られた肖像画は向きを変え、絵の目が群衆の方をなめるように動いた。布の端が擦れる音。遠くで子どもの叫び声。建物の陰から飛沫をあげて走ってくる人たちの足音。空気は木と煤と汗の匂いを帯びる。

広場の空気が揺れる。昼の陽が肖像布に透け、古い顔立ちがつよく浮き上がる。風がひと吹きするたび、帆布のように張られた肖像画は向きを変え、絵の目が群衆の方をなめるように動いた。布の端が擦れる音。遠くで子どもの叫び声。建物の陰から飛沫をあげて走ってくる人たちの足音。空気は木と煤と汗の匂いを帯びる。

「これ以上、私たちの誰かを犠牲にしないでください!」

若者たちの前に立つのは、街の代表を自任する小柄な青年、ハツキだった。頬に泥がつき、声は擦り切れている。彼の前で一枚の紙が広がっていた。そこには改竄された印章と、まるで本物のように見える文言が並んでいる。誰かが仕組んだ妨害工作だ。文書は、彼らが求めていた公開討論を「反逆」「秩序違反」と断じるように書き換えられていた。

アリエはゆっくりと階段の上に体を預けた。袖の縁に泥の斑点。彼女の顔には疲労が刻まれているが、そこには家名を守る者の冷たい算段が隠れていた。「家の名にも限度がある」と彼女は言った。「討論はする。しかし、私の屋敷に迷惑が及ぶなら、私は折れる。マルクの命と引き替えに、私たちの交渉で妥協を取りつける。」

「妥協、ですって?」ハツキが噛みつく。「それは告発者を黙らせるだけだ。公開の場を要求しているんだ、隠し事をさらす場を!」

群衆の間、数人が声をあげる。ある老人は肖像布を見上げて、低く嗚咽する。肖像は、彼らが長年にわたって「役」を読み替えられないままにされた象徴だ。そこに吊るされた顔は、いつのまにかその人間の意思ではなく、制度の台本に沿って笑んでいる。

コルはすでに両手を土で汚していた。彼の衣の裾にも黒い線がついている。中央の石畳の端、アリエとハツキの間に立ち、耳を研ぎ澄ませる。風が肖像の布をはためかせるたびに、彼の胸の内で何かが重くうねる。合意を読み替える力は万能ではない。そばにいる者全員の同意が必要だ――だが妨害で同意が壊された今、どうするべきか。コルの目は冷たく光った。

「公開討論は、できる。今ここで、条件をつくることもできる」彼は声を張った。石畳に響く低い声。群衆が一斉に振り向く。「だが、手続きの条文を単純に逆手に取るなら、影響は広がる。私が一方的に判定を下すことになれば――」

彼は言葉を切った。言葉は途中で砂のように零れ落ちる。自分が一方的に誰かの運命を決めれば、自分の選択肢が一つ消える。これまで幾度かテストして、代償は必ず現実の何かを奪った。今回は何が消えるのか、彼にも確証はなかった。だが選ばなければ、マルクがその場で訴追される可能性は高い。石畳の向こうに、若い男の震える手が見えた。マルクだ。彼は眼鏡の端がずれており、口紅のついた紙切れを握りしめていた。噂では、彼が示した証拠を握りつぶそうとする勢力があり、それが妨害工作の首謀だ。

「私が調停します」コルは、決意を言葉にした。「ただし、ここにいる全員の同意が必要だ。称号を持つ者、町の代表、告発者本人、そして被告とされる者。全ての声を一つの文に織り込む。私が文言を読み替える。だが同意しない者がいるなら、私は――」

アリエがその前に踏み出した。群衆のざわめきがひときわ大きくなる。彼女の顔は鋭く、何かを計算していた。「あなたは、私の家を危険に晒すつもりかしら」彼女の声は針のように冷たい。「うちの家名が貶められるのは認めない。だが家族を守るために一歩退くことは許す。公開討論が行われ、そこから結論が出るなら、私はその結論を尊重する。ただし、討論の条項には私の保護を盛り込むこと。それが無ければ協力はしない。」

ハツキは喉を鳴らして笑った。「保護って何だ。結局は口止めだろう。公開討論の意味がない。」

そこへ、薄茶の布を被った女が押し分けてやってきた。セラ。彼女は盗み聞いていたに違いない。小さな腕輪が光り、日差しを跳ね返した。「アリエ、あなたはいつも自分の代わりに他人を守らせる。今回は違う。家名のための保護じゃなくて、証言者の安全を約束してみせなさい。でなければ、ここにいる誰もが真実を語らない。」彼女は群衆に向かって拳を振り上げる。拍手が起きる。

コルは両手を広げた。「ここが問題の核心だ。皆がそれぞれの事情を持ってここにいる。私の能力は、古い条文の『意味』を多数の合意で書き換えることができる。しかし今は、合意が不足している。だが一つの方法がある。被害者一人に対する差し迫った迫害を止めるため、私は――一時的な手続きの再解釈を提示する。討論は公開性を最大化し、三日の猶予を置く。議題は二つ。妨害の責任、制度の是正。議決は参加者の三分の二の支持で暫定的な執行停止を課す。だがこれを実行するには、私がここで一つの判定を先行して下さねばならない。」

「それは独断だ」アリエが眉を寄せる。「前例ができれば、後で利用されるわ。」

「だから代償がある」コルは答えた。「私が一方的に誰かの運命を決めた場合、私自身の選択の一つが消える。それを承知の上で手を貸すつもりだ。」

静寂が来る。風が肖像布を揺らし、絵の目が瞬きをしたようだった。コルの中で何かが冷たく鳴る。彼は胸のポケットに手を入れ、そこに仕舞ってあった小さな銀の印環を取り出した。父が遺した、家を離れるときに使うはずだった指輪。長年それを「もしものときの逃げ道」と呼んでいた。誰にも見せたことはない。

「これが私の選択の象徴だ」と彼は呟いた。指輪は冷たく、細かな切子の欠けがある。コルはその縁に唇を寄せ、つぶやいた。「私が一方的に決めれば、これを捨てることになるだろう。あるいは――」

言葉はそこで切れる。どう表現するかは、彼にも分からなかった。だが仲間たちは意味を嗅ぎ取った。セラの顔が険しくなる。ハツキは指輪に目をやり、息を飲む。アリエはわずかに眉を下げた。

「やれ」ハツキが言った。声は震えていたが、芯は強い。「私たちは三日間で勝負をつける。討論を開け。あなたがその判定を下せば、私たちはその猶予を使って真実を掘り返す。逃げ場を失っているのは、いつも民なんだ。今回は違う。」

だが、誰も満場の同意を示さなかった。称号を持つ者たちの列には、頑なに首を振る者がいる。妨害の主導者に近い顔つきの者が、人混みの影から冷笑した。彼らは制度の既得権を守りたがる。アリエも内心では家名を守ることを優先している。合意は不完全だった。

コルは深く息をついた。指輪をポケットに戻す。そのとき、背後の一つの肖像布が裂けた音がして、絵の縁から何かが落ちた。群衆の視線がそこに集まる。落ちたのは小さな紙切れだった。誰かがそれを素早く拾い、眼を見開く。小さな文字で「抹消」と黒く染め抜かれている。その紙は、ある女性の肖像の下から滑り落ちたのだ。

「まさか……」セラが息を漏らした。「あの肖像の持ち主は、法の記録から名前だけ抜かれている。写真に残るのはいるが、書類上は存在しないっていう証拠だ。妨害工作は、単に文書を偽造するだけじゃない。人を『無かったこと』にする術が使われている。」

群衆のざわめきが一気に嵐になる。マルクの顔色が蒼白に変わる。これまでの妨害は、ただ討論を潰すためだけのものではなかった。もっと根深く、人々の存在そのものを消し去る力が動いていた。肖像が揺れる。絵の