肖像画の悪役令息は恋愛フラグを無視する 第1話「序章」
金縁が並ぶ回廊の空気は、蝋と油絵の匂いで重たく、それが群衆の吐息と混ざって低いざわめきを作っていた。巨幅の肖像画が列を成し、背広の男も、雪のように白い襟も、みな遠目には同じ黒の影に埋もれている。だが、コルの視線は一枚の額縁に吸い寄せられた。どの肖像も丹念に描かれている中で、その一つだけ――小さな貴婦人の肖像の瞳が、絵具の光を異様に返していた。
金縁が並ぶ回廊の空気は、蝋と油絵の匂いで重たく、それが群衆の吐息と混ざって低いざわめきを作っていた。巨幅の肖像画が列を成し、背広の男も、雪のように白い襟も、みな遠目には同じ黒の影に埋もれている。だが、コルの視線は一枚の額縁に吸い寄せられた。どの肖像も丹念に描かれている中で、その一つだけ――小さな貴婦人の肖像の瞳が、絵具の光を異様に返していた。
手が震える。右手の指先で台詞の巻物をぎゅっと握り、左の胸に当てた小さな肖像札の縁を確かめる。父が渡したものだ。縫い付けられたリボンの端に、三つの小さな眼の絵が並んでいる。将来選べるはずの選択肢を象った印だと教えられた。親族会議で約束された「選択の数」。たかが儀礼だと笑えば済むが、今夜は笑えない。今夜、コルは「悪役令息」として断罪の台詞を吐く役目を押しつけられている。誰かが決めた筋書きに従い、場の正義の矛先を一身に受けると、宮廷の秩序は再確認される。
「そなた、準備はよいか」
声は館の良識と同じ調子で届いた。式を仕切る宰相ガルドの声。彼の隣に立つ式次の侍女は、唇を固く結び、巻物を差し出す。巻物の文字は古い楷書で、単語の配置に古い法律の律儀さが滲む。
「本日は、位階録に則り――」
会場の空気が引き締まる。位階録。あの、壁一面に書き記された文書だ。血統と位階と行動の定め。生まれが筋書きであり、筋書きは守られるべき規律となる。肖像画はその記録の視覚化だ。笑いも泣きも、筆で定着される。
コルは、巻物の最初の一行を見た。それは、誰もが知る台詞だ。彼の口が動こうとした瞬間、絵画の瞳がこちらを見返した。貴婦人の目は、ただの絵具ではなかった。黒曜石の一点が光を宿し、漆黒の芯から小さな光の反射が揺れた。観客の一人が小さく息を呑む音が聞こえた。
「……私、台本に従いません」
言葉は小さかった。だが造作のないほど真っ直ぐで、聴衆の背筋を刺した。巻物を掲げた侍女の手が微かに震え、ガルドが眉を上げる。ざわめきが波状になる。諸侯の間で交わされる視線が刃物のようだった。
コルは一歩、壇上から踏み出した。群衆の視線が彼の顔に落ちる。床の大理石に自分の影が伸びる。胸の小さな肖像札が音もなく触れ合った。
「台詞は、私を断罪するために用意された筋書きに過ぎません。位階録には、婚姻は本人の同意によると書いてある。だが同じ位階録の別の行は、血統の台詞により行為を定めるとも書いています。二つは矛盾している。――この矛盾を、ここにいる皆の意思で読み替えることはできないのですか?」
言い終えると、ざわめきがさらに高くなった。貴族たちの顔に表れるのは、驚愕、好奇、怒り、無関心と千差万別だ。誰かが冷笑を漏らし、誰かが手元の羽扇を強く握りしめる。だが数秒の後、意外にも、ある者が手を上げた。次に、また一人。三人、五人……。小さな同意の波が広がる。
コルは、用意してきたのではない。しかし、彼の能力は前世の啓示でも魔術でもない。古い文書の矛盾を見つけ、当事者の合意によって条文を再編する交渉術だ。万能ではない。合意が必要で、合意は自発的でなくてはならない。強制や偽の賛同は効かない。だから彼は館の前に立ち、絵画の瞳に向かって――そして誰よりもまず、そこにいる人間たちに向かって訴えたのだ。
「ここにいる全員の合意が必要です。声をあげてください。あなた方は、私の役割が私以外の人の選択を奪うものとして固定されることを望みますか?」
奥の列でレイナが立ち上がった。幼い頃からの友人であり、反発心を秘めた伯爵令嬢だ。彼女はゆっくりと、だが確実に、自分の手を高く掲げた。彼女の瞳は光を帯びていて、コルの心臓が一瞬温かくなった。だがその隣にいる老伯は首を振る。古い顔が硬く歪む。
合意は作られることもあれば、崩れることもある。コルは計算していなかったことが現実になっているのを感じた。多数の賛同が集まった。その勢いで巻物の条文を音読し、歴史に刻まれた語順を指で追ってみせる。言葉の配置を、一語ずつ、違う立場の語と取り替えてみせる。彼の声はいつしか芝居の役者のものではなく、法廷での弁論のそれになっていた。
空気が押し返されたように震え、肖像画の列からかすかな帷子の擦れる音が聞こえた。貴婦人の目の光が、さらに鋭くなった気がした。人々の同意は集まった。彼は、位階録の読み替えのための合意を成立させた。会場にいた多数が「ある読み」を選んだ瞬間、古い律が微かに、だが確かに変形した。
その瞬間、小さな違和感がコルの左胸を刺した。胸に当てた肖像札の一つの眼が、ぱりりと小さな音をたててひび割れた。予想していなかった。細い線が広がり、絵具の表面が錆びたように欠けて、黒い粒が床にこぼれ落ちた。だれも声を出せなかった。床に触れた破片は、蜃気楼のように淡く、すぐにまた消えたようにも見えた。
「それは……」
誰かの呟き。三つあった眼のうち、一つを失った。コルはその感覚を、言葉にならない喪失として喉の奥に感じた。彼の頭の中に、あり得たいくつかの未来の映像があった。帽子を貰い、港へ行き、幼子と笑う未来。馬に乗る未来。国外へ逃げる未来。どれも輪郭は薄く、番号札のように排列されていた。ひび割れた肖像札とともに、ひとつの未来の輪郭が白く飛んだ。消えたのだ。彼は触れられない重さで、選べるはずの一つを失った。
誰が驚愕するでもなく、それを見ていた。あの貴婦人の肖像の瞳が、なぜか微かに濡れて見えた。絵が泣くはずはない。だが会場の空気は一変し、歓喜と恐怖が同じだけ混ざった。彼は自分が代償を知っていることを、全員に知られてしまった。
「代償――だろうな」
レイナの声が、コルの耳元で囁かれた。彼女はその場に残り、腕を組み、斜めに微笑んだ。彼女の微笑は励ましでも、警告でもあった。コルは微かに首を振った。利用はしないつもりだった。だが、それでも誰かの台本を瓦解させ、誰かの運命に手を触れた瞬間、代償は取られた。
式は続く。だがその後の展開を決めるのは、今ここにいる人々の選択である。コルは台詞を投げ捨てたまま、壇上で立ち尽くす。背後の肖像群が囁くように揺れ、観客の中の誰かが叫んだ。
「それなら、あの肖像画の目を替えたのは誰だ! 誰が私達の断罪劇を演出している!」
声に続いて、別の事実が一斉に空気を裂いた。ガルドの横に立っていた典礼の書記が、握りしめていた位階録の折り目を見せる。新しく挿入された一頁が、縫い込まれた針跡のように不自然だった。誰かが、肖像と位階録を操作して脚本を整えている。コルはそれを見た瞬間、次に為すべき選択肢が二つあることを悟った。ひとつは、ただ立ち去ること――自分の消えた選択を嘆きながら、黙って外界へ出ること。もうひとつは、絵と文書に手を突っ込み、改竄の源を突き止めることだ。
彼は胸の空いた部分を触った。欠けた眼の痕は冷たく、どこか生々しかった。レイナが彼の側に寄り、低く言った。
「あなたは選ぶの、コル。私たちも選ぶわ」
その言葉に会場の視線が再び彼に集まった。好奇と期待、あるいは罵倒の準備。コルは巻物を地に落とした。粉になってしまった未来の欠片を、どう取り戻すかはわからない。だが今、彼が下すのは別の選択だ。目を裂いた肖