鉱山の悪役令息は前世の記憶に従わない

鉱山の悪役令息は前世の記憶に従わない 第6話「第5章」

石造りの廊は冷たく、ランタンの光が長い影を引きずっていた。壁の隙間から鉱山の粉が入ってくるのか、空気にはまだあの救出現場の乾いた鉄と土の匂いが残る。足音が石床に当たると、小さな響きがやけに大きく聞こえた。ライルは厚手の外套を肩に羽織り、掌を握りしめた。指先に残る粉は洗っても落ちないようで、爪の際から黒い線が滲んでいる。

石造りの廊は冷たく、ランタンの光が長い影を引きずっていた。壁の隙間から鉱山の粉が入ってくるのか、空気にはまだあの救出現場の乾いた鉄と土の匂いが残る。足音が石床に当たると、小さな響きがやけに大きく聞こえた。ライルは厚手の外套を肩に羽織り、掌を握りしめた。指先に残る粉は洗っても落ちないようで、爪の際から黒い線が滲んでいる。

「ライル=テルモ、説明を聞こうか。」

宰相アヴェリンの声は、滑らかで冷たい。彼女は高い椅子に腰かけ、机の上に広げられた文書たちを指先でなぞるようにしている。文書の端には王室の印がきっちりと押され、紙は年季を帯びても威厳を失っていなかった。

ミーナが跪いて、窓の外を気にするように目を泳がせた。ドレンは腕の包帯を押さえながら、隣の木椅子に座り直している。鉱夫たちの匂いが纏わりつき、堅実な息遣いがライルの鼓動と重なる。

「私は――」ライルは口を開いた。言葉はまともに出ない。救出のとき、彼が選び、みなが頷いた。救援資材を――酸素ボンベや支柱、搬送の順――優先順位を割り振るために、彼は読み替えを使った。文書の配給条項を、現場に居合わせた指揮官、鉱山監督、数名の代表者の合意で別の読み方に変え、必要な資材を一時的に再配分した。人の生命が掛かっていた。あの瞬間、選択肢は目の前にしかなかった。

「現場の合意があったじゃないか」と、ドレンが低く言う。彼の声にはまだ怒りと疲労が混じる。「向こう――会社側の代表は、後で来たんだ。だがそのときには、もう決めるしかなかったんだよ。ライルは、俺たちを助けた」

アヴェリンが薄く笑った。「合意、というのは便利な言葉だ。君が持つ『読み替え』は、制度文書を当事者全員の合意で読み替える能力だと君自身説明した。だが当事者とは誰を指すか。鉱山の所有権を持つ者、王室、会社の利害関係者、そして労働者代表――全てを含めねば正統性は担保されない。現場にいた者だけが同意したというのなら、それは部分的な合意だ。部分的な合意で運命を書き換えたと、我々が判断すれば、それは"一方的"の類になる」

言葉は矢のように刺さる。ライルは思わず目を閉じた。彼は理屈で反駁したい。けれども、胸の中のどこかで、冷たい空洞が拡がるような感覚があった。あの救出のとき、見えない帳尻が取られたのだろうか。代償が払われたのだろうか。

「代償、とは――」ミーナが低く尋ねる。彼女の手は震えている。鉱山の粉が頬を黒くして、眼の縁に小さなきらりとした光を残していた。

ライルは口を結んだ。答えは既に彼の身体の中で起きている。左の胸の奥、心臓のすぐ隣に小さな空虚がぽっかりと開いているような、冷たい穴。その場所に、いつもあったような"選択の余地"がもうない。彼は以前、祖父の手から受け取った小さな銀貨を握っていた。錆びた紋章が刻まれたそれは、俗に"決権の印"と呼ばれるものではなかったが、彼にとっては象徴だった。未来に一度だけ――誰かの運命を自分で定める権利を行使できる、という淡い約束。

ポケットに手を入れた瞬間、指先が何か粉のように崩れる感触を捉えた。銀貨は手の中で砂になっていた。たちまち温度が引いて、指の間に溶け残る微かな冷たさが残るだけだ。

アヴェリンはその表情を見逃さなかっただろう。冷たい瞳がライルを見下ろす。「なるほど。君は自覚がないようだが、既に一つの選択肢を代償として支払ったようだ。王室の記録係を呼べ。適正な償還措置を検討しよう」

場がざわつく。ドレンの顔が動揺で赤くなる。ミーナが立ち上がり、前に出る。「そんなことを言うためにここへ? 彼は命を救った。代償が発生したなら、それは――」

「君には法を説く気はない」とアヴェリンは遮った。「我々は法を守る。法が定めた代償が発生したと記録されれば、君の権能は帳消しにはならぬが、その行使に伴う制限は課される。例えば、君が今後、他者の運命を――」

「将来一度だけ使える選択肢を失った、ということか」とライルが声を絞る。どうして、それを目の当たりにするだけで全身が凍りつくのか。まだその一回をどう使うか決めていなかった。前世の声は、いつものように彼を"お約束"へ誘ったはずだが、彼はその声に従わないと決めていた。だが代価は彼の支配下ではなく、外部から勝手に徴収されたかのように消え去った。

裁判官の一人が、書類をめくりながら口を挟む。「重要なのは、君がどのような判断基準で資源を配分したか。生命優先か、労働能力維持か、あるいは社会的地位か。今、こういう状況にある以上、我々は君の判断を問う」

ドレンが立ち上がり、椅子を蹴った。ギシリという音が廊に響く。「問われるべきは、この国だ。鉱山で死にかけた者を守ろうとしたやつを裁くのか。王室は何を守る?」

そのとき、高い外套をまとった使者が廊の奥から急ぎ足でやってきた。手に光るものを抱えている。彼は、息を整える間もなく、アヴェリンの前に進み出て、書類を差し出した。封蝋の一つに見慣れぬ紋がある。暗赤色の蜜蝋に、押しつけられたのは細い鎚と三つの山の紋章――鉱山の庶民が使うようなものではない、上位の家紋に似た複雑な形。

「何です?」アヴェリンが訊ねる。

使者は一礼する。「鉱山から届いた請願です。鉱夫たちの署名と、加えて――公文に準ずる印章が同封されています。差出人の実名は書かれていませんが、封に押された紋は、少なくとも一族の副流、爵位を持つ者が使う刻印に類似しています」

ライルはそれを受け取ると、中の紙を開いた。鉱夫たちの手で乱雑に署名された名簿。指の跡、血か油か分からない染み。最後に一行、別の字で短く書き添えられていた。

「我が名は――支持せり」

短すぎて意味が掴めない。だが、紙の下に押されたもう一つのくぼんだ印が、彼の視線を止めた。赤い蝋には、王家とも公爵家とも違う微かな紋。見覚えのある形状だ。幼い頃、領地で見たある人物の家紋に似ている。それは、こちら側の誰かが密かに鉱山の庇護を表明した証かもしれない。

アヴェリンの顔がわずかに強張った。「これは、問題を別の方向へ向ける存在の示唆だ。君、ライル。君がこのまま静観するか、あるいは――」

言葉はそこで止まった。ライルは紙越しにその印をじっと見つめる。誰が、密かに鉱夫たちを支持したのか。なぜ公に名を出さず、印だけを残したのか。もし名のある貴族が動いていれば、宮廷の動きも変わる。

ミーナが小さく息をついた。「誰かが、私たちの味方をするのかもしれない」声は喜びを含ませているが、不安が混じる。

ライルは銀貨の残骸を見ながら、ポケットの中の空虚を確かめた。代償はもう払われていた。だが、まだ道は残っている。選択肢そのものが一つ減っただけで、決定する意思は消えていない。前世の筋書きに従わないために、彼はより明確に、仲間たちと向き合う必要があった。

「まずは、この印を突き止めよう」ライルは低く言った。「誰が我々の側にいるのかを知れば、宮廷の動きも読める。だが――」彼はドレンに目を向けた。「これ以上、鉱山での危険を放置するわけにはいかない。君たちの判断で、次の行動を決めてくれ。私が一つ大切なものを失ったとしても、君たちの選択は奪わない」

ドレンは黙って紙を握りしめる。ミ