鉱山の悪役令息は前世の記憶に従わない 第3話「第2章」
蝋燭の炎が、廊下の壁に薄い橙色の地図を描いていた。朝の光はまだ王宮の窓枠に届かず、石の床は冷たく、靴音だけが反響する。ライルは、いつもなら朝の鍵を差し込むはずの懐に掌を探った。指先に触れるべき冷たい鉄の輪は、そこに無かった。
蝋燭の炎が、廊下の壁に薄い橙色の地図を描いていた。朝の光はまだ王宮の窓枠に届かず、石の床は冷たく、靴音だけが反響する。ライルは、いつもなら朝の鍵を差し込むはずの懐に掌を探った。指先に触れるべき冷たい鉄の輪は、そこに無かった。
「なくしたのか、礼服の下で寝たのか」
足音の主は、執事のダミアンだった。年季の入った灰色の目はいつも落ち着いているが、今朝は少しだけ強張っている。ダミアンはライルの表情を一瞥して、言葉を続けた。「昨夜、鉱山から戻られたあと――あの騒ぎの後、家令から鍵を預かるように言いつけられておりました。申し訳ありませんが、殿下、ご自室の鍵はお役所で保管になっております」
ライルは手を引っ込めて、懐の空間を確かめた。感覚の空白は小さな衝撃だった。失くした物は金具だけではない。自室にあるという個人の書類、古い手紙、前世の記憶を拒むと決めた彼が密かに確かめていた小箱――そうしたものすべてに、もう触れられない。
「なぜ預けられたのか、理由は?」ライルは静かに尋ねた。
ダミアンは唇を噛んだ。廊下の向かいにある侍従長室の扉が半分開いていて、中から小声の怒鳴り声が漏れていた。貴族特有の緊張感が空気に溶けている。「鉱山の件で、殿下のお出ましが人々の不安を煽る――という上申でした。殿下ご自身の安全のためと、家の体面のために、暫定措置だそうです。長として、私からは異を唱えられません」
体面。安全。言葉は丁寧だったが、意味するところは明瞭だった。彼のしたこと――あの紙鱗を並べ、古い運搬税の条文を読み替えたこと――は、家と王宮に波紋を広げていた。支持する者がいる一方で、ライルを危険視する者も多かった。
廊下の向こうで扉が開き、眩いばかりに広がる廳(ホール)へ導かれた。いつもなら朝の式典で微笑む貴婦人たちの顔があるはずの場所に、鉱山からの使者と、管財人の長であるアルベルト侯爵が立っていた。侯爵は強い顎と短く切った銀髪を持ち、目の奥が氷のように冷たい。彼の襟元には、鉱区に関する領主としての印章が光っている。
「ライル殿下、昨夜の挙動は余りにも無鉄砲だった」侯爵の声は低く、廳の石に当たって跳ね返る。「条文を勝手に読み替える行為は、王都の秩序を乱す。思い上がりも甚だしい」
ライルの頬は冷たかった。侯爵の言葉は事実を淡々と突いている。しかし、彼の胸にあるものは、恐れではない。前世の筋書きを無視すると決めたこと、そして鉱区の坑夫たちが灯した小さな希望の火が、それを大きくしただけだ。
「私は―」ライルが口を開く前に、鉱山の代表が勢いよく一歩前に出た。マルタという小柄な女だ。煤(すす)にまみれた手を振り払って、力強く侯爵を睨む。「我々は了承したのです。誰が読んでもわかる文字を、あの殿下は私たちと一緒に並べた。紙鱗を触ったのは、私たちも同じです」
廳は一瞬、息を呑んだ。ダミアンが一歩彼女に近づき、ライルの肩に小さな手を添えた。マルタの顔は煤で黒かったが、目だけは澄んでいる。彼女は自分の意思で前へ出たのだ。その立ち姿は、ただの従者や被害者ではなく、主体的な人間のものだった。
侯爵は唇を薄くして、冷笑を隠さない。「合意だと? ではこの合意には鉱区の名目上の所有者である我が家の代理も含まれているのかね」
「含まれている」とマルタは断言した。「殿下と我々坑夫が紙鱗を並べたとき、県役所の書記二名もその場にいました。私たちは文書の意図を変えたのではない。取り分として明記されていなかった『坑夫の生活分』を、当事者全員の同意で読み替えたのです」
侯爵は指を小さく震わせた。「誰がその書記を差し出すか。証人はその場で名前を書け」
その声に、会場の片隅からガサガサと音がした。小柄な黒衣の男、コリンが前に出る。薄い紙帳を抱え、顔にはインクの斑点がある。コリンは王宮の法務部に属する小役人だが、ライルと鉱山の文書を整理していた張本人でもあった。彼は自分から書記の署名欄に指を置き、静かに言った。「私が署名した。書類はここにあります。鉱区の役人の記録も、証言に残っています」
それを聞いて、侯爵の顔色が変わる。だが彼はすぐに表情を整え、別の攻撃の種を探した。「だが、その合意の『範囲』が問題だ。殿下が当事者の合意を越えて、対象を自ら定めた――という証拠が出れば、我々はあなたの行為を公の秩序に反するものとして扱う」
ライルの腹に冷たい感触が戻る。侯爵は不在の第三者――「対象を自ら定めた」という言葉でライルの行為を解釈している。昨夜、あの合意の儀式でライルが声高に読み上げた条文の解釈は、坑夫たちの生活を守ることに重心を置いていた。だが、侯爵はそれを「決定権の越権」と見なしたのだ。結果、ライルは自らの選択が一方的だと解釈される危険に晒される。
「あなたはまだ、自分の能力の代償が何であるかを知らない。」コリンがぽつりと言った。「私たちの法は――詩や呪術ではない。だが、古い文書には—『読み直し』の儀は相互の了承を要する、と。もし誰かが読み替えられる対象を単独で指定した場合、読み替えの差し替えとは別の作用が起きる、とも」
ライルはその言葉を反芻した。ダミアンが足元で小さな金属音を立てる。彼は、昨夜の儀式の直後に鍵がどうなったかを思い出す。紙鱗を並べたあと、彼は最後の判読をするために一つの条文の矛先――つまり「誰の取り分を変えるか」を指さした。鉱夫たちは同意した。だが侯爵の居ない場で、彼がその対象を明確に指示した瞬間、なにかが働いた。自分の部屋の鍵が消えたことは象徴だったが、法の形を借りた代償はそれに留まらないかもしれない。
マルタが腕組みをして、ライルを見た。「我々は選んだよ。だが我々は、あなたが何を失ったのか知らなかった。鍵を失ったというのは……何を意味する?」
ライルは答えを探すまでもなく、わかっていた。選択肢を失うということだ。鍵は物理的に閉ざすだけでなく、ライルが自分で管理していた決定、秘密、そして自由を象徴していた。それを失った今、彼の行動は外部に左右されやすくなる。侯爵がその隙を突こうとしているのだ。
「それでも、私はやるべきことをやった」ライルは言った。「坑夫たちの命は数字だけでは計れない。我々が変えなければ、彼らは壊れる」
侯爵は鼻で笑った。「崩すのは、規律と伝統だ。王都は秩序によって保たれている。殿下のような感情的な決断がまかり通れば、混乱しか生まれない」
議論は喧嘩に転じるところだったが、突如、廳の入口で低い錠前の音が響いた。侍従長が小さな箱を抱えて入ってきた。ライルの名が呼ばれ、箱は彼の前に置かれた。蓋を開けると、そこには彼の鍵ではなく、別の物が入っていた。薄い羊皮紙の巻物、古びた印章。上には見慣れぬ字で一行だけ――「鉱区自治に関する古章」。
コリンが巻物を手に取ると、顔が引き締まった。「これは――見つかったのは初めてです。王室の古文書庫でも、長らく行方不明だった条文があります――『鉱区会議』の条。そこには、極めて限定的な条件下で、鉱区の住民と地主とが共同で決議を上げられる規定がある。だが、実際にはその条文は在位中の多くの王が無視してきた」
その言葉に侯爵の隣で微かに色が変わった。自治などとい