婚約の悪役令嬢は敵役の友人を救う

婚約の悪役令嬢は敵役の友人を救う 第8話「第7章」

庭園のオレンジの木陰に、落ち葉が風の指先で揺れる音だけが残っていた。石畳の冷たさが足裏にしみ、エレナは指先で婚約の徽章を撫でた。金糸で織られた小さな薔薇の徽章は、まだ熱を帯びているように感じられた。だが心の中の温度は低く、失敗の余波が肌を刺す。

庭園のオレンジの木陰に、落ち葉が風の指先で揺れる音だけが残っていた。石畳の冷たさが足裏にしみ、エレナは指先で婚約の徽章を撫でた。金糸で織られた小さな薔薇の徽章は、まだ熱を帯びているように感じられた。だが心の中の温度は低く、失敗の余波が肌を刺す。

「遅かったな」

軍服の男が影の端から現れ、長靴のかかとの音が規則正しく並ぶ。カイルは腕を組み、肩越しに庭を見やった。汗と鉄の匂いが混じり、彼が近づくたびにエレナは過去の決断が押し寄せるような気持ちになった。

「指揮系からは外されていないのか」

エレナが問い返す。声音は枯れていて、自分でも驚くほど小さい。

「外された。けれど下の兵たちは残ってくれた。私の意思で、ではない。命令を破ってくれた者たちだ。リスクは大きいが、クラリスを塔に送る前に動く余地はある」

カイルの目が真っ直ぐにエレナを捉えた。夕暮れに薄く光る瞳が、かつて二人で交わした約束を思い出させる。だがエレナは首を振った。

「武力で奪還するつもりはない。私は誰かの代わりに断罪を背負ったが、同じやり方で解決するつもりはないの。彼女の意思がないまま安全圏に連れ出すのは救済とは呼べない」

カイルの表情が沈む。軍人らしく、早急な決着を望んでいたのだ。だが彼がここに来たのは、ただの戦力確保ではない。彼は自分の選択をここで見せたかったのだろう。敢えて上官に従わないという選択を。

「わかっている。だが時間はない。塔への護送は今夜だという」

そのとき、影がもう一つ動いた。ローレンが、しわがれた書物を抱えて現れた。彼女の手はインクで汚れ、肩掛けの包みからは古びた羊皮紙の端が覗いている。紙の匂いが、庭の柑橘の香りに混ざった。

「資料を見てきた。解釈の余地は確かにある。『婚約と盟約に関する古例』は、当事者全員の合意を前提に矛盾を解消するための条文を残している。だが、それを外から適用すると――」ローレンは言葉を切った。指先が震えている。

「すると?」

エレナが前に出る。胸の奥で何かがきしむ。ローレンは苦渋の表情で紙を見つめ、静かに言った。

「外からの強引な『読み替え』は成立する。ただし……それを行った者は、法の『余白』にある自分の選択肢のいずれかを永久に失うことになる。古い註釈には、その代償が『当人の後の一つの選択を奪う』とだけ書かれている。具体的に何を失うかは予測できない。婚姻、財産、称号、もしくはもっと個人的な何か——」

夕暮れの光がローレンの紙の端を金色に染める。字は年輪のようにページに刻まれ、彼女が抱えた秘密の重みを伝えてきた。

「誰がその代償を受けるの?」

カイルが短く言った。目は厳しいが、どこか恐れている。

「それを使う者だ」とローレン。「合意なしの行使は可能だが、価格は必ず払わされる」

エレナは徽章を握りしめる。冷たい金属が指の温度を奪う。クラリスのことを思うと、胸の奥が掻きむしられるように痛む。救いたい。だが同時に、自分の持つ数少ない選択肢を一つ失うことの重さも、彼女は知っている。

「クラリスはどうするつもりだった?」

質問が、庭の石についた苔の匂いと一緒に風に乗ってきた。振り返ると、塔から逃げ出したわけでもない、だがここにいる一人の影がコートの裾に消え入りそうに立っていた。クラリスだった。護衛の目をかいくぐるように、泥だらけの靴で現れる。薄汚れた手で袖を払うその仕草に、かつての華やかな日々の名残はない。

「私を置いて話すなんて、酷いですね」

クラリスの言葉は軽い嘲りを帯びていたが、瞳には確かな意志が宿っていた。彼女の髪には風の埃が絡み、口元に微かな笑みが浮かぶ。夕暮れの光が彼女の顎の輪郭を鋭くする。

「あなたが勝手に私を代弁するな」とクラリスは続けた。「私を救うのはいいけれど、私を物のように受け取って欲しくない。もし誰かが私の運命を代わりに決めるなら、その代価があなたの人生の一部でも、それは私が望んだ救済ではない」

エレナは息が詰まりそうになった。クラリスが言う「私の意思」という言葉の音は、鈍い鉄槌のように彼女を打った。救済を受ける側が、自分で立ち上がろうとしている。これまで計画してきた救い方は、もはや通用しないのかもしれない。

「塔へ送られるのは今夜だと聞いた」とカイルが割って入る。「今なら物理的に奪える。私は……」

「命令違反は、あなたを消すかもしれない」とクラリスが静かに言った。「私のために誰かが自分を失うのは見たくない。もし力を使うなら、私の合意が必要だ。私は自分で決める。刑を受けるなら受ける。ただし、その上で皆の前で自分の言葉を持ちたい」

エレナはその言葉に胸を突かれた。クラリスの顔に、かつての敵意はほとんどない。むしろ、自分の運命を握りしめる新しい強さがそこにある。

ローレンが紙を取り出し、震える手で古い条文の一節を指でなぞる。インクの匂いが近づく。彼女は静かに言った。

「当事者全員の合意があれば、矛盾は消える。クラリス自身の合意も含めて。だがクラリスが今ここに同意できる状況か、という問題がある。塔の判断は『強制』に基づく。もし私たちがクラリスを塔から引き出し、彼女が自由な状態で署名できる場所へ連れて行けるなら——合意での読み替えは可能だ」

カイルが吐く息が白い。夜が冷え込んでくる予兆だ。軍は動かない。護送隊は増している。時間は砂のように減っていく。

「だがオプションが一つ、どうしても残る」とローレンは付け加えた。「もしクラリス自身が合意できない、あるいは合意を示す前に手を出す者がいるなら、誰かがその『手出し』をする。そうなれば、その者は選択の一つを失う。どの選択かは運ではなく、制度が判断する。――それが、私が見つけた注釈だ」

エレナの思考は速く回る。クラリスをその場から連れ出して自由のもとで合意を取る。だが護送隊の行動時間まで残りわずかだ。カイルの提案は現実的だが力で奪うことへの後悔も大きい。ローレンの言う「合意の時間」を作るには、城内での地位を利用する必要がある。だが城内での地位は、エレナの婚約が彼女に与えていた力の一つだった。

徽章を見つめると、指がぞくりとした。決断は灯火のように瞬時に必要だった。

「私がする」とエレナは、つぶやいた。

二人の視線が同時に彼女へ向いた。カイルは驚き、ローレンは顔色を変えた。クラリスの目に一瞬、何か冷たいものが宿った。

「何をするつもりだ?」

「私が文書を読み替える。クラリスを塔から外し、仮保護とする文言を、私の名前の下で差し出す。だが――私はそれを一方的に行う。合意を取れない状況を解消するためだ。代償が来るのは承知している。だけど、私には今それを払う覚悟がある」

ローレンの手が急に冷たくなるのを、エレナは感じた。古い羊皮紙を床に広げる。カイルがこちらを見据え、言葉は短かった。

「行くなら俺も行く。だがその代償が何に出るか、分かっているのか」

エレナは徽章をはずして胸に握りしめた。金属が冷たい。心臓の鼓動が速まる。自分の中で羽ばたく小さな声が叫ぶ――やめろ、と。だがもう遅かった。彼女はローレンの差し出す紙に指を置き、読み替えの文言を口に出した。声は震えていたが、言葉は明