婚約の悪役令嬢は敵役の友人を救う

婚約の悪役令嬢は敵役の友人を救う 第5話「第4章」

灯りは少なかった。控えの礼拝堂を仕切る朱色の布がひだを作り、蝋燭の火がその縁を揺らす。紙の擦れる音、衣擦れ、遠くで馬のいななきが断続的に聞こえ、空気は乾いていた。エレナは机の上に広げた古びた巻物を押さえ、指先で文面の行間をなぞった。墨の匂いと、経年で紙が吐く土のような匂いが鼻をくすぐる。

灯りは少なかった。控えの礼拝堂を仕切る朱色の布がひだを作り、蝋燭の火がその縁を揺らす。紙の擦れる音、衣擦れ、遠くで馬のいななきが断続的に聞こえ、空気は乾いていた。エレナは机の上に広げた古びた巻物を押さえ、指先で文面の行間をなぞった。墨の匂いと、経年で紙が吐く土のような匂いが鼻をくすぐる。

「これでいいんだね。条文は明確だ。'当事者全員の合意'——ここにある」
ローレットが小声で言った。彼女の指が淡い文字を指し示す。細めの眼鏡の向こうで、瞳は興奮と不安で震えていた。

外側の扉が開き、ソフィアが入ってきた。縫い子の手は針糸の景色がまだ残ったまま、袖口に引っかかる布切れが見える。顔には疲労と緊張と、少しの怒りが交じっていた。彼女の瞳に、救いを期待するような光は残っていない。けれど、それでもここに来たのだ。

「来てくれてありがとう、ソフィア」
エレナは立ち上がり、手を伸ばす。指先が触れたのは硬い冷たさ、針の先よりも細い震えが手に伝わった。

「助けるって言ったのはあんたよね。ヴィオレッタの…友達を、って。あたしがそんなに大事なのか知らないけど、これを逃すと明日はもう——」
言葉を途切れさせ、ソフィアは喉を鳴らした。明日という言葉の向こうにある恐怖を誰も遮れない。

準備はしてきた。小さな式次第、見立ての誓約書、署名代わりの印章の複製。だが一つだけ足りないものがあった──同意を示す当事者、つまりソフィアの"保護者"とされる男の意思表明。番頭であり名ばかりの監督者であるベルトラン。彼は、金で人を動かすことに長けていた。

扉が再び開き、ベルトランが入ってきた。腹は出て、顔は脂ぎっている。手には小さな巻物を抱え、ふんぞり返るように立った。彼の横には、ローランという名の若い従者が控えている。ローランの目が、ベルトランを良心から憎むように細まった。

「ここで何を?」ベルトランは鼻で笑った。「こんなところで密約でも交わすつもりかね。公的なものに劣るものの効力を…君たちは本当に愚かだ。王都の登録と私の差配の前では紙切れ同然だよ」

「そう思っているのはあなたが、です」エレナは静かに言った。「でもこの巻物には解釈の余地がある。'当事者全員の合意'とある以上、あなたがここで明確に同意を示せば、古い契約は別の効力へと移れる。ソフィアが別の家に送られる義務は消えます」

ベルトランは目を細めた。「私が同意する価値があると思えば、だね。報酬を出してくれるのか?」

「お金ではない方法で説得するつもりだ」とローレットが割って入った。「この条文の字面を、当事者が目の前で言葉にするように仕向ければいい」

それはエレナの方法だった。書面の読み替えは、当事者全員が意思を可視化し、口頭で表明した瞬間に作用する。だが――その"可視化"は自由な意思に基づくことが前提だ。誰かを脅して導くことは禁じられている。エレナはその線を踏むつもりはなかった。だが、状況は常に思い通りにはならない。

「私は…私は同意しない」ベルトランが冷たく言った。「彼女はこの取引の対象であり、我が家の利益だ。お前たちの遊戯に付き合うつもりはない」

空気が固まる。ローレットの顔が引き締まった。ミロが軽く拳を握る。彼はエレナの護衛で、腕の筋肉が鋼のように盛り上がっている。誰もが、ベルトランを無理に動かすことはできないと知っていた。他人の自由を奪うことは、エレナの能力の境界でもある。

「彼を説得するんだ。それが無理なら、せめて目の前で意思表明をしてもらう。強制ではなく、納得して」エレナは言った。だが、心の奥に小さな声があった。もしここで彼が頑として動かなければ、どうするのか。選択肢は二つ――撤退して何も変わらないか、法の読み替えの禁を犯してでも強行するか。後者は代償を伴う。

話し合いは続いた。ローレットが言葉を尽くし、ミロが低い声で脅しめいた意味をにおわせ、ソフィアは泣きそうな声で自分の願いを述べた。ベルトランは頑として動かない。時間が削れていく。廊下の向こうで、宮廷の式典の仕度が始まったことを告げる鐘が一度鳴った。夜がその蓋をするように静けさを深める。

エレナは目を閉じ、巻物を手に取った。文字を見下ろすたびに、能力の輪郭が身体に触れる。いざというとき、選択するのは自分だ。だがここで押し切れば、誰かの運命を一方的に変えることになる――禁止だ。代償は一つ、直ちに訪れる。彼女はそれを知っていた。だが、ソフィアの顔を見れば、引く理由は消えた。

「やる」エレナは短く言った。

ローレットが驚いて口を開いた。「エレナ、無理よ。彼を…」

「分かってる」エレナは彼女を制した。「ここで何もしなければ、明日ソフィアは出て行く。彼女が何も選べず消えるのを私は見たくない」

エレナはベルトランに近づき、彼の手首を掴んだ。皮膚は暖かく、指先に力がこもる。ベルトランは驚いて睨んだ。

「私に命令はできない」とベルトランは吐き捨てる。だがエレナは巻物を開き、声を震わせながら条文を読み上げた。読み替えの言葉は古い言い回しで、誰かを脅すような響きではない。しかし彼女の手からほとばしる意志は、相手を押しつぶす重さを帯びていた。

「ここで、あなたが'同意する'と声に出して宣する。私たち全員の前で」

ベルトランの顔が青ざめる。彼は手を振りほどこうとしたが、ローレットが静かにテーブルの端に立ち、見張りの役をした。ミロの腕が彼の背後に控える。逃げられない状況ができあがる。これが強制だと、誰もが思った瞬間、エレナの胸に冷たい痛みが走る。能力が反応した。彼女は理解した──一方的に意思をねじ曲げた。それは禁じられている行為だった。

巻物の墨がふわりと揺れ、蝋燭の火が一瞬青白く揺らめいた。そして、間違いなく何かが失われた。エレナの手許に嵌めていた小さな銀の指輪がきしみ、刻まれていた七つの細い切り欠きのうち一つが暗く沈んだ。指先に伝わる感覚が薄れて、エレナは自分の内側にぽっかりと空いた穴を感じた。記憶でも、感情でもない。まるで一つの可能性が彼女の中で消えたような気配だった。

「同意する」——ベルトランの声がひび割れたように廊に響く。強い声ではなかった。だが巻物はその言葉を受け、文字の意味が滑りなおされる。文面の端に小さな朱印のような光が生まれ、古い契約の効力は揺らいだ。ソフィアの肩の震えが止まる。彼女は目に涙をためて、エレナを見た。救われたという実感が、水滴のように彼女に降る。

同時に、エレナの視界の色が少し薄くなり、世界の口径が一つ狭まった。何かを失った実感がじんわりと痛い。ローレットが駆け寄り、エレナの顔を見る。

「どうしたの?顔色が——」ローレットの声は震えていた。

エレナは指輪を見つめた。暗く沈んだ一つの切り欠き。それが意味するものが分かった。選択肢を一つ失うという代償は、抽象ではなく、彼女の生活に直結する具体的な拘束だった。心の奥で、一つの未来の扉が閉じられた気配がする。どの扉かはまだ掴めない。だが、確かに何かが消えた。

「無事に終わったのは良いことだ」ミロが低く言った。「でも代償が――」

「分かってる」エレナは答え、ソフィアに手を伸ばした。「行こう、ソフィア