警護の悪役令嬢は公爵家の秘密を売らない 第8話「第7章」
城の北壁に沿って、夕陽が赤い刃のように落ちていった。風は冷たく、城石の隙間から塵が舞う。イリナは鎧の袖を擦り、視線を建物の列から人影の合間へ滑らせた。護衛としての体は動いている。足場を確かめ、矢の通り道を計算し、側壁に残る古い血の跡を確かめる。だが胸の奥にあるものが、いつものように熱く尖ることはなかった。怒りも、匂いに反応する直感も、微かな嘘を嗅ぎ分ける鋭さも――薄れている。
城の北壁に沿って、夕陽が赤い刃のように落ちていった。風は冷たく、城石の隙間から塵が舞う。イリナは鎧の袖を擦り、視線を建物の列から人影の合間へ滑らせた。護衛としての体は動いている。足場を確かめ、矢の通り道を計算し、側壁に残る古い血の跡を確かめる。だが胸の奥にあるものが、いつものように熱く尖ることはなかった。怒りも、匂いに反応する直感も、微かな嘘を嗅ぎ分ける鋭さも――薄れている。
「イリナ様、そろそろお戻りを。夕餉の時間です」
副官のマーカスが提灯を持って近づく。彼の声は年齢を経て温かいが、今のイリナはそれに波立つことがなかった。彼女は短く首を振っただけで、再び視線を城下の広場に戻す。広場には市女の八百屋、道化師の小屋、そして今日の夕方に予定された小さな演劇の準備が見える。演劇はこの城の小さな娯楽で、時折、在地の小さな論争を滑らかにする役目を果たしてきた。
だが、そこに向かう人波の中に、いつもとは違う緊張が生まれている。市女の一人が喉を詰まらせ、誰かの袖を引いている。言葉にならない示唆――それを感じ取れず、イリナはただ周囲の表情を機械的に数えた。だが護衛は時に数を超えた断定を要する。今の彼女には、判断に付随する情動が欠けていた。無色の冷たい合理だけが残る。
「そこだ」マーカスが指さした先で、若い貴族の従者が群衆に押されて倒れている。すぐに二人の城兵が駆け寄り、その従者を取り囲んだ。従者は口元を拭いながら、怯えた目で周りを見回した。誰かが叫ぶ。「あの男だ! 公爵家の密書を盗もうとしていた!」
言葉は瞬時に広がる。密書――公爵家が絶対に隠しておきたい、いくつもの役割を縫い合わせた古い文書群を示す言葉。人々の視線が従者に集まる。断罪の空気が波のように押し寄せる。イリナは動いた。考えるより先に、護衛としての筋肉が反応していたが、異変はそこにあった。判断の速度は保てても、動機の色がない。彼女は従者を守るべきだと知っていた。だが胸を燃やす理由が消されているため、その行為は周囲に示す強さに欠け、命令は伝わりにくい。
「止めろ!」イリナが声を上げる。彼女の声は明確だが、群衆の熱には届ききらない。人々は既に演目を待つ観客のように、楽しげな残酷さを期待し始めている。従者の唇が震え、ついに誰かが手錠をかけるふりをして笑う。それは悪意ではなく、制度の見世物性に慣れた者たちの遊びだった。
そのとき、従者の口から呟きが漏れた。小さく、だが鋭い。――「あの書は、四年後の祭事で役割を確定する。誰も抜けられないようにするためのものだ。――公爵家の根はそこだ」
その一言が群衆を変えた。不自然な静けさが一次的に訪れる。それは密書の名前。城の耳は古い話を聞き逃さない。マーカスが従者を引き離し、素早く後方へ連れ去る。だが静けさの後には怒声が来る。誰かが石を投げ、劇場の舞台袖が騒然とする。断罪は一度スイッチが入ると抑えが利かない。イリナは慌てて群衆を押し止めようとし、体を張って盾になった。だが自分の中で鳴るべき怒りの鈍い脈は、もう頼りにならない。
「イリナ様、あなたの顔が……」マーカスが囁いた。彼の目には不安が宿っている。イリナは自分でもその欠落を感じていた。彼女は昨夜、技能を使った。古い条文の矛盾を掘り、断罪の手続きを読み替えて、ある少女の運命を変えようとした。それは彼女の能力――合意読み替えの術だった。だが術の縛りを破って一方的に決めた。結果、少女は救われた。だがイリナは代償を払った。選択肢の一つを失うというその代償は、彼女の一部の情緒を奪った。今、護衛として最も頼りにしていた直感が鈍っている。
だが群衆は待ってくれない。断罪劇が始まる。舞台上の小屋の幕が開き、道化師が場を取り繕おうとする。声楽が始まり、観客の嘲りを変える隙を作る。一瞬だけ、演劇が秩序を取り戻すかに見えた。だがそれは表面的な糊でしかなく、心の波は収まらない。
その夜、夕餉の席は重かった。城の大広間に集まった者たちは、表情を作って箸を動かす。イリナは端に座り、食べものの味が薄いことを確認するだけだった。目の前に座るのは情報係のイーサン――細面の青年で、城下の噂と身分証の束を常に抱えている。彼は皿の縁を撫でながら、視線を交わすことなく切り出した。
「今夜の件、広場での騒ぎです。従者が密書の名を口にしました。市井の者が聞き、噂が広がりつつあります。誰かが仕組んでいたか、ただの偶発か……どちらにしても、公爵家はこれを黙ってはいられません」
「誰がその従者に近づいた?」イリナは静かに尋ねる。問いは職務の延長でしかない。だがイーサンは即答せず、唇を噛んだ。
「従者自身が貧しい一族の出で、夜市で情報を買っていた。買い手が誰だったか――それが問題です。城内の侍女か、あるいは執事の誰かが通じている可能性もあります」
イリナの視界の端で、ソフィアが動いた。ソフィアは公爵夫人の侍女頭で、柔らかな黒髪と確固たる気配を持っている。彼女は今日、執事たちと控え室で言葉を交わしていた。イリナが動けない分、彼女の言葉は重かった。
「私からも聞きます。執事頭のハウトには、家訓録の管理権がある。彼に近い者なら、密書の所在や中身を知る可能性が高い。私が説得してみましょう。直接交渉で、どこまで話すかを探れるはずです」
「あなた一人では危険だ」イーサンが反論した。「ハウトは人を動かす力がある。説得どころか、足をすくわれる」
「分かっている」ソフィアはすっと答えた。「だから私も支援を求める。だが、私が口を開かなければ、彼らは黙ったままです。そして黙ることは、制度の意のままになることと同じです」
イリナは二人の顔を順に見た。胸の中に、冷たい合理が占める隙間がある。選べる手は少ない。それでも彼女は、今まで通り自分だけで決めるわけにはいかないと感じていた。自分が独断でまた誰かの運命を奪えば、代償はさらに重くなる。仲間の選択で道を作るしかない。
「よし、やろう」イリナは短く言った。言葉は静かだが、それまでの彼女の抑えた顎が一度上を向いたことで、皆の耳に届いた。護衛の本分は守ることだけではない。守るために誰と守るかを決めるのも、彼女の責務だ。
その言葉を合図に、再編が始まった。イーサンは資料と噂の網を広げるべく、城下深くへ潜る。彼は薄暗い居酒屋の端で酒を片手に古い情報屋に言葉を買わせる。顔に刻まれた笑みは薄く、指先は震えていたが、彼の動きは確かだ。暖色のランプが揺れる中、イーサンは古い出納帳の隅に記された不審な取引を見つけ、そこに住む商人の名をメモした。
一方、ソフィアは豪奢な髪飾りを外し、侍女らしい慎ましさで執事頭ハウトの控え室に向かった。扉の木の匂い、油で磨かれた金具の冷たさ。ハウトは最初は戸惑いを見せたが、ソフィアは公爵夫人の侍女としての信頼と、かすかな譲歩の匂いを携えていた。彼女は穏やかに言葉を紡ぎ、ハウトの遠い過去を掬い出す。ハウトは一瞬、迷いの影を見せた。だが説得は結果を約束しない。彼女が手にするのは可能性だけだ。
そのころ、イリナは城壁の上に戻っていた。風が再び頬を掠める。彼女は自分の手を見つめる。節の冷たい金属、掌に残る擦り傷。感情の一部を失った代償は、思い