警護の悪役令嬢は公爵家の秘密を売らない

警護の悪役令嬢は公爵家の秘密を売らない 第4話「第3章」

廊下の石が冷たく、夜の空気が長い影を床に引きずっていた。イリナは鎖を首にかけられた「断罪される令嬢」の役を全うするために、表情を硬くして前を歩いていた。列をなす護衛たちの胸当てが擦れる音、革靴のかかとが石畳に弾く乾いたリズム。観客役の侍女と近侍が後ろに続き、イリナは息を抑えつつも耳を研ぎ澄ませた。

廊下の石が冷たく、夜の空気が長い影を床に引きずっていた。イリナは鎖を首にかけられた「断罪される令嬢」の役を全うするために、表情を硬くして前を歩いていた。列をなす護衛たちの胸当てが擦れる音、革靴のかかとが石畳に弾く乾いたリズム。観客役の侍女と近侍が後ろに続き、イリナは息を抑えつつも耳を研ぎ澄ませた。

廊下の突端で、金属の擦れる音が止まった。違和感は、空気の振動の変化でわかる。彼らは「見ている」わけではない。探っている。箱の偽装を見破ろうとしている者たちの足取りが、壁に反射してもっと細く聞こえた。

「動くな、イリナ様。ここは演技だ」レオンハルトが低く囁く。彼の声は冷たく、でも震えを含んでいた。彼は護衛隊長だ。規律と手続きに縛られた男だが、今はその規則にすがるしかない。

演技。言葉だけなら簡単だ。だがこの夜の空気は、本物の刃を孕んでいた。

――カラン。

石畳に何かが当たる鋭い音。箱を調べていた者の一人が、偽装の綻びを見つけた。彼らは外部の使者だ。常套ならば、使者は文書を提示し、正規の開封手続きが為される。だがここは夜中の侵入、正規手続きなど期待していない。

「偽物だ。中の密封が違う」遠くから甲高い声。半月の光が、使者の小さな紋章を刃先のように浮かび上がらせる。帝国の官符に似た形。宮廷機構の、あの冷たい輪郭。

レオンハルトが動く。護衛が伸ばした槍先が廊下の影を切ったが、相手は人数では劣らない。視界の端で、クレインが箱のそばで腕を振るっていた。彼の顔は蒼い。鍵を懐に隠しているはずの彼だ。

「演技を終わらせるわけにはいかない」イリナは低くつぶやいた。自分が演じる「悪役」に利用されたくはない――だが今はそれを逆手に取るしかない。

イリナはそのまま鎖を弾き、視線でレオンハルトを捕えた。「護衛に扮してくれ。今夜だけ、私と護衛をな」

鎖を払って見せると、侍女たちの視線が一瞬泳いだ。断罪の演出が崩れれば周囲の士気は揺らぐ。だがレオンハルトは即座に理解し、古びた肩章を一つ外してイリナに渡した。足取りは確かに緊張していたが、彼は隊の統制を乱さない。彼の許可があったからこそ、他の護衛たちも混乱に乗じて配置を変えた。

「盾になれ。演技で守るんだ」イリナは声を張り、鎖を胸に当てるふりをした。断罪される者のはずが、今は演出の一部として守りに回る。歩みはゆっくり、しかし確信があった。観客を混乱させ、侵入者の行動を読み取らせない。細い回廊の角で、それは有効に機能した。侵入者は偽物を見つけたと錯覚し、注意を散らされた隙に前線が押し戻される。

だが、時間は限られている。箱を見張る者たちは、ただ目の錯覚を利用して時間を稼いだに過ぎない。彼らの本来の目的は、ただ偽装を暴くだけでなく、箱の中身を取り出すことだ。それを阻止するためには、法の読み替え――イリナの持つ能力が必要だった。

条解(じょうかい)。古い制度文書の文字を、関係者全員の同意で読み替える技術。前世の記憶などない彼女にとって、これは唯一の武器だ。だが条件がある。すべての「当事者」の同意を得なければ効力を持たない。誰かの名前を抜きにして勝手に運命を決めれば、代償が生まれる。

イリナはその場に膝をつき、声を低くして言った。「私が読み替えをする。ここで箱の封を一時的に譲渡できると定める。ただし、この場にいるすべての者の同意が必要だ」

「公爵の印がないと違法だ」護衛の一人が突き返す。正規の手続きが無ければ、彼らは追及を受ける。それでも、箱を開けられればもっと取り返しのつかないことが起きる。

クレインが不意に手を挙げた。彼は鍵を握る手の震えを押し隠し、薄く笑った。「俺が同意する。俺が保管者だ。ここにいる者すべての意思だ」

「レオンハルト、マルタ」とイリナは順に名を呼んだ。二つの名が静かに肯定の合図を返す。セラもかすれた声で同意した。四人。だが、当事者にはもう一人、開封に正当性を持つ公爵がいる。ザレイ公爵はここにはいない。彼が立ち会わない以上、完全な同意とは呼べない。条解は、本来ならば杜撰な読み替えを許さないための歯止めである。

イリナはそれでも決めた。胸の奥が冷たくなったのを感じる。自分の意志で、誰かの運命を一方的に縮める選択をする瞬間――それが代償を生むのだ。箱を守れば守るほど、彼女の自由のひとつが削られるかもしれない。

「――公爵の不在を一致と見做す。ここにいる者全員の合意を以て、短期間の執行権を護衛に委譲する」イリナの声は震え、だが明確だった。彼女は条解の言葉を口に出した。言葉は古い書で練習した呪文のように、規則の縫い目を引き剥がしていく。

周囲の空気が変わる。石の冷たさが一度和らいだ気がして、ホッと息を吐いた瞬間、胸のところでいつも小さく鳴る銀貨の感触が消えた。イリナは自分の首もとにぶら下げていた小さな銀貨――それは彼女が密かに保持していた「選択の象徴」だった。家を抜け出すため、どこへでも行けるようにと握り締めていた可能性の一つ。瞬間、掌に何も残らない。

「あ――」声が出たが、すぐに止めた。クレインの顔を見れば、彼も何かを察していたらしい。彼の目に後悔はない。自分の意思で鍵を守り、同意の一つを差し出したのだ。

条解は動いた。正式な署名も不在の公爵も、今はこの場の同意によって代替された。護衛は箱の封を軽く外し、中の木箱を取り出した。中身は銀の文書筒。安全だ――ように見えた。

その瞬間、廊下の向こうで銃声のような破裂音が響いた。クレインが振り返り、反射的に身を挺して箱を胸に抱える。何か熱いものがクレインの胸を濡らし、彼はそのまま膝をついた。

「クレイン!」セラが叫び、周囲の者たちが一斉に動く。血の匂いが甘く鼻を突く。誰かの包帯が裂ける音。イリナは手を伸ばしてクレインを支えた。彼の顔は蒼白で、唇は震えている。

「箱を、箱を守れ」とクレインが笑い、指先が鈍く箱を撫でた。「偽物じゃない……でも、違う――」

箱の筒の中には、公文書らしきものではなく、小さな燻(いぶ)された紙片がぎゅうぎゅうに詰められていた。墨の滲んだそれには、複数の名と、何かの取引の断片が書かれている。その文字列の中に、聞き慣れた名前がある。ザレイ公爵家の名も、地方の貴族の名も並んでいる。

「誰がこんなものを…」レオンハルトの声は、怒りと困惑が交じる。

クレインは静かに笑ったように見えた。血の混じった唇に、アザになった笑みが浮かぶ。「俺の鍵は箱の鍵じゃなかった。入ってたのはおとり。真の箱は――」

息が止まる。夜の空気に、朝焼けの兆しが混ざりはじめる。狭い回廊の端の窓から、薄い茜色が差し込んだ。影が長く伸び、護衛の列の輪郭をぼやかす。今まで守勢に回っていた彼らが、はるかに不確かな守りへと追いやられているのが視覚的にわかる。演出として使っていたはずの護衛列が、今や防衛の限界を露わにしている。

クレインは口元に血を滲ませながら、ゆっくりと手を伸ばし、紙片の一つをイリナに押し付けた。その紙には、見慣れぬ印章と暗号のような断片が書かれていた。震える指でそれを開くと、裏面に小さな焼け焦げた跡があった。誰かが焦って取引の痕跡を消そうとしたのだろう。

「外部の使者がこれを探し