星詠みの悪役令嬢は弟を玉座から遠ざける

星詠みの悪役令嬢は弟を玉座から遠ざける 第27話「第二部幕間」

夜の観測塔は、昼間の喧噪を嘲るように静かだった。石造りの階段を上ると、風が肩越しに冷たく通り抜け、天窓の薄いガラスに星々がぶつかるように光った。アイリスはいつもの窓辺に腰を下ろし、膝の上の細長い箱を撫でた。箱の中には、幼い頃に母がくれた銀の小箱が入っている。蓋には小さな星の刻印。彼女はふとその刻印に指先を押し当て、曖昧な安心を確かめるように息をついた。

夜の観測塔は、昼間の喧噪を嘲るように静かだった。石造りの階段を上ると、風が肩越しに冷たく通り抜け、天窓の薄いガラスに星々がぶつかるように光った。アイリスはいつもの窓辺に腰を下ろし、膝の上の細長い箱を撫でた。箱の中には、幼い頃に母がくれた銀の小箱が入っている。蓋には小さな星の刻印。彼女はふとその刻印に指先を押し当て、曖昧な安心を確かめるように息をついた。

「夜分に失礼します、閨(ねや)の姫様。」

扉の陰にナヤの黒い影が差した。彼女は深い息をしたまま、いつもの束ね髪をほどきもしない。息遣いに、廃館の香りと紙の油の匂いが混ざる。

「どうした、ナヤ。こんな時間に。」

「局の簿記を確認しました。下層の執務班から同意の兆しが出ています。カイム様の即位告示に関する小条項──公請簿の執筆日付の結び目を再解釈すれば、告示の執行を先延ばしにできるかもしれないと。ですが侯爵家側は頑なで、上席の同意は望めません」

彼女の言葉は淡いが、目元に鋭さがある。アイリスは箱の蓋に爪を立て、硬い息を吐いた。条解は合意が必要だ。誰かの定めを外すためには、その定めに関わる人々の承認が要る──というのが常だった。だが、刺すように近い迫られる時間がある。

「下層の執務班で合意が取れるのなら、それを示せば式は動くかもしれない」とアイリスは低く言った。「でも──」

「でも上の者が認めなければ、やはり形式上は無効になります。局の者たちの同意だけでは、法理上の斟酌は足らない。だから、今晩は皆の了解を集める試験を──と考えています。小さな条項を一つだけ読み替えてみる。効力の範囲と代償を確かめるために」

月の光が紙の端を銀に染め、ナヤはそっと古びた巻物を差し出した。薄い羊皮紙に、黒い墨が朽ちたように残っている。星詠みの紋章が、端の余白で微かに照っていた。

「よい。やってみよう。だが──一つだけ条件がある」アイリスは指先で箱を軽く押し、蓋がほんの僅かに開くのを感じた。「当事者全員の合意で、だ。強制はしない。理解してるね?」

ナヤはうなずいた。だがその瞳には反抗の炎も見えた。二人は観測塔の外階段を駆け下り、石造りの中庭に向かった。そこには既に、召使いや下級侍従、図書館の番人──十ほどの顔が集まっている。冷たい空気の中で、誰もが息を白くし、星を背にしていた。

アイリスは巻物を広げ、声を震わせずに規定の文言を読み上げる。星の刻印がページの縁に触れるたび、文字が微かに波打つように見えた。下層の人々が順々に頷く。彼らの多くは、自らの生活に直結する日程の延期を望んでいた。合意は静かに、しかし確かに成立した。条解の儀式は、強制ではなく、交渉だった。星の紋が淡く光り、石畳に小さな影が落ちる。

合意が確かめられた瞬間、背後で何かが剥がれる音がした。アイリスはぞくりと身体を震わせた。視界の片隅で、自分の影がほんの一寸だけ痩せたように見えたのだ。掌に感じたのは、冷たい鉄の味。長年慣れ親しんだ「選ぶ余地」の一つが、音もなく落ちていく気配。だが同時に、告示の執行日は公式に、四旬後に延期されることが書き換えられた。小さな勝利だった。

「無事に取り付けました」ナヤは小さく息を吐いた。「代償は──ありましたね」

アイリスは箱を覗き込み、蓋の縁に小さく割れの筋を見つけた。そこに眠らせていた、自分の選択の象徴が一つ欠けたような気がした。胸にぽっかりと穴が開くような――それはまだ小さな痛みだったが、確かに存在した。

翌朝、宮廷は動揺の波紋で目を覚ました。だがそれよりも早く、別の知らせが飛んできた。カイムが廷外で暴動に巻き込まれ、護衛の一人が命を落とした──という報告だ。状況は簡単には整理できない。侮れない証拠が上がれば、カイムを非難する動きは即座に勃発する。時間は残されていなかった。

「もし告示が遅れていなければ、彼はもう公にされているはずだった」とナヤは言う。顔が青ざめている。「だが今の延期だけでは、彼を守りきれない。来るのは告発と審問です。貴族間の欺瞞は審問より速く動く」

サリエ将官が来訪したのはその午前だった。彼はいつもの軍服の上着を着込み、膝元に律儀な皺を寄せながら立っていた。将官の眼差しは柔らかく、しかし制度に対する揺るぎない敬虔を帯びている。

「条解の使用は許される。だが、手続きが守られねばならぬ」と彼は言った。「即断で誰かの継承を剥奪することは、条解の本旨に反する。合意は人々の共同の行為であるべきだ。姫君がそれを踏み越えるつもりなら、その代償を受け入れる覚悟がおありか?」

サリエは問いかけた。部屋の空気がその言葉で厚くなる。彼は悪人ではない。制度を守る人びとの典型であり、それが正義だと信じるがゆえに堅い。しかしアイリスの中では、兄弟を守る決意が燃えていた。

昼下がり、アイリスはカイムと二人だけで会った。彼は昨夜の騒動のせいでやつれた頬をして、指先に土の跡が残っている。会話は最初ぎこちなかった。彼女は自分の胸の内にある方法を口にすることを恐れた。

「姉上、僕は……僕を誰かが決めるのは嫌だ。姉上が僕のために手を汚すのは望まない。たとえそれが僕を守るとしても」

カイムの声は震えていた。彼の目は真っ直ぐで、怒りでも恐れでもない。自主性の光だった。アイリスはその光を見て、言葉を飲み込んだ。条解を一方的に行使して彼を制度外に押しやることは可能だ。だがその瞬間、自分の手で彼の運命を決めることになる。その代償は、彼女自身の選択肢が一つ消えることを意味する。彼女はそれを受け入れてよいのか。

「カイム、もし私があなたを即座に告示から外すことができたとして──」アイリスは口を開いた。「その代わり、一つを諦める覚悟はある。私は、それを受け入れる。だが貴方は――?」

カイムは沈黙した。長い瞬間の後で、彼は小さく息を吐き、笑ったように見えた。

「姉上が何かを失うなら、僕は姉上の代わりにそれを負わせはしない。僕は自分で立つ。自分で、玉座から離れる決断をする。誰かに…姉上に決められるのは嫌だ。姉上はもう僕の盾にならなくていい」

その言葉は、夜風に乗った鐘の一つのように、アイリスの胸を鳴らした。彼の意志は鮮烈だった。ナヤがいたらたぶん声を荒げただろう。サリエならば、それは礼儀正しい譲歩だと見做すかもしれない。だがいま目の前にいるのは、選択を自ら取る少年だった。

アイリスは膝の上の箱をぎゅっと握った。箱の蓋の裂け目が、昨夜より深く見えた。彼女はゆっくりと箱を開け、内側の銀の小箱を取り出した。そして、意を決してそれを床に置いた。箱の鎖が一節ずつ、重みをもって外れた。彼女の掌はしびれて、言葉が出ない。

「分かった。あなたが自分で選ぶなら、私も選ぶ」アイリスは小さく口を結んでから、吐き出した。「だが、その前に──最後に一つだけ、僕を守るための手を打たせてくれ。強制ではなく、君の同意が得られるように。君の名を僕自身の口で、一時的に封ずる方法はある。約束する。ただし、それには代償がある。僕はそれがどういうものか知らない」

カイムは首を傾げた。アイリスは銀の小箱に手をかけたまま、ふと窓の外の星空に視線を投げた。星々は無数にきらめき、そのうちの一つが画面の端で