星詠みの悪役令嬢は弟を玉座から遠ざける 第17話「第15章」
夜風が王宮の石階を冷たく撫でる頃、星はいつもより静かに光っていた。天井窓一面に張られた薄い硝子越しに、都市の光なき点が散らばっている。式典用の長躯が並ぶ大広間は、王家継承の夜にふさわしい緊張で満ちていた。白いろうそくの炎が、集まった顔の輪郭を揺らす。重苦しい沈黙を破ったのは、宰相ユリアン・マールの低い声だ。
夜風が王宮の石階を冷たく撫でる頃、星はいつもより静かに光っていた。天井窓一面に張られた薄い硝子越しに、都市の光なき点が散らばっている。式典用の長躯が並ぶ大広間は、王家継承の夜にふさわしい緊張で満ちていた。白いろうそくの炎が、集まった顔の輪郭を揺らす。重苦しい沈黙を破ったのは、宰相ユリアン・マールの低い声だ。
「明日の朝、国は次の王を戴く。継承律典は明確だ。星の印は連綿と、君主の権を示す」
ユリアンの前に座る貴族たちが頷く。彼らの掌には古い文書の写しがある。継承律典――王朝の伝来を文字にしたものは、条文と星の記述で始まり、誰が王位に就くべきかを示す手続きまで細かく規定していた。
「合意がなければ文言は変えられない。署名者全員の同意。これが律典の原理です」と、書記官ミコトは指を震わせながら告げた。彼の目はアイリスを探す。
アイリス・レーヴェンは壇の影からそれを聞いていた。胸に冷たいものが沈む。弟オルヴァンは、王位継承を祝うためにいつもより神妙な表情で座っている。彼の頬に浮かぶ汗の粒は、熱のためではない。弟はまだ十七。国の未来を決めるには若すぎると、アイリスは思っていた。しかし律典が彼を名指ししている以上、ただ黙っているわけにはいかない。
「合意、ね」アイリスは吐き出すように言った。口の中に罪の味がした。星詠みとしての儀式服の袖を握りしめると、指先に布のざらつきが触れる。彼女は「読み替え」を使える。古い制度文書の矛盾を、当事者全員の同意によって別の解釈に書き換える交渉の術だ。だがその術は万能ではない。いつも彼女はそれを口にする前に、自分に課した鉄の掟を確かめた――一方的な決定はできない。合意なしに他者の運命を定めれば、自分の選択肢が一つ、永遠に消える。
ロザンヌが隣で顔を蒼くしていた。「アイリス、署名者を一つずつ説得するしかないわ。ユリアンだって、立場がある。恨みを買えばオルヴァンの位置はもっと危うくなる」
「だが時間がない」カーンが短く言う。軍の人員が既に王宮周辺に律動している。情報は矢のように届き、朝に向けて計画は動いている。
アイリスは深く息を吸った。星詠みの小さな緋色の箱を胸に当てると、夜空を見上げる。星は同意を促すほど優しくはない。彼女の術は、文言の落ち度を炙り出し、当事者のそれぞれが自らその読み替えに「合意を与える」よう促す交渉の芸だ。だがここにいる十数人の顔を思うと、全員の承諾は遠い。誰かが利益を失うとわかれば、簡単に否と言うだろう。
「ならば、別の方法を選ぶのよ」ミコトが小さな声で言った。彼は古文書の隅を指でなぞる。「律典の付則に、緊急停止の条項がある。しかし、その発動は王家の血族のいずれかによる明示的な承認を要する。…アイリス、あなたの血筋に関わる文言がある」
その言葉は雪解けのように広間の空気を冷やした。アイリスはその意味を直感した。王家の血による承認――それは、王家に近い者が自らの手で継承を止める力を持つということだ。だがその発動もまた、合意の手続きに紐づく。彼女の術が必要だった。
「全員の合意を得るには、時間と説得がいる」ユリアンが静かに言った。「僕もまた、その長を担ってきた。だが、国は混乱を恐れている。来る朝のために、多くが安全を選ぶだろう」
「安全って、誰の?」アイリスの声が食い違いを刺す。彼女はすでに相談する時間がないことを知っていた。庭の石畳が、朝日の下に凍りついたように固い。
議論は長引いた。アイリスは合意の輪を小さくするため、ひとりずつ声を尽くして説得に回った。夜が深まるにつれ、数人が彼女の元に来て賛意を示す。だが、盤上に並ぶ重要な署名者のうち、三名だけが首を振った。彼らは王位が確立すれば手に入る地位や遠征の名誉を失いたくないと公に言った。アイリスはその顔に決して怒りを向けられなかった。制度は彼らに利益を与えてきたのだ。
「合意が揃わない」ロザンヌが背を押した。息が荒く、声には震えが残る。「どうするの、アイリス?」
彼女は箱の蓋を押し開け、中の小さな硝子珠を取り出した。星詠みの道具だ。星の光を借りて文言を照らし、曖昧な箇所を浮き上がらせる。通常なら、それを皆の前に広げ、個々が自らの意志で同意の印を残す。だが今、時間は残らない。朝はすぐだ。
「僕に判断を任せてくれ」とオルヴァンが、しわがれた声で言った。彼は立ち上がり、鉄製の欄干に片手を置く。汗が首筋を滑る。「もし王になるのが国の望みなら、僕は従う。姉よ、どうか――」
オルヴァンの言葉は真実のように甘く響いた。だがその甘さの裏に、彼自身の欲求が張り付いているのも見て取れる。彼はまだ自分の意思で選んでいるのか、それとも律典に書かれた役割に従っているのか。アイリスにはそれがわからなかった。彼女は弟を守るためにここまで来た。だが「守る」とは何か――自由を守ることにほかならないはずだ。
「今すぐ合意を取り付けられないなら、もう一つ選択肢がある」アイリスは口を開くと、言葉を選んだ。「律典の文言を一時的に変更すること。…ただし、これは当事者全員の同意を得る術の逆行だ。合意がない場合、僕は一つの選択を失う。自分の未来の道のひとつが消える」
広間に静寂が落ちる。ミコトの顔から血が引いた。ユリアンは額にしわを寄せた。オルヴァンの手が少し震える。
「代償は?」カーンが低く問うた。「それはどんな──」
アイリスは硝子珠を胸に当て、星詠みの術の真髄を思い浮かべた。読み替えは交渉である。交渉の核心は、相互の選択肢を交差させることだ。だがルールを破れば、交差点の一つが物理的に消える。彼女自身の「将来選択肢」のひとつだ。具体的に何が消えるかは、術を使った瞬間に決まる。彼女はその不確定さを飲み込んだ。
「僕はそれを受け入れる」オルヴァンが言った。彼の眼には光が戻り、決意の線が刻まれている。「姉が払う代償なら、僕は――僕はもう一つの犠牲を重ねたくない」
オルヴァンは自分の意思でそう言ったのだろうか。アイリスにはわからない。だが彼の言葉は軽くはなかった。彼は自らの身を盾にする覚悟を見せた。仲間たちの顔に、小さな変化が走る。ロザンヌはぎゅっと手を握りしめ、ミコトはノートを取り落としながらも目を逸らさない。
「合意が揃わないと術は機能しない」とユリアンは繰り返す。「一方的な修正は、国家の安定を揺るがす。だが、君がそれを選ぶなら、我々は責任を問われる」
アイリスは硝子珠を空中に掲げた。冷たい光が掌に映る。指先が震え、耳鳴りが上がる。全員の視線が一点に集まる。彼女は深く息を吸って、言葉を紡いだ。
「ここにいる皆の名をもって、私は――読み替えの発動を宣言する。明日の継承は一時停止する。王家継承は、全ての署名者が自らの意思で再確認するまで保留とする」
その一声は、夜の空気を裂いた。硝子珠が白く光り、星のような光点が部屋中に散る。だが同時に、どこか古い鐘が壊れるような音が聞こえた。アイリスの胸の奥で、何かが折れた。
「いまのは──合意なしの発動だ、アイリス!」ミコトが叫ぶ。だが彼の声は届かない。術は勢いよく働き、文言の字面を揺らし、古い律典の縫い目をほどく。長く続いた手続きの一縷がほどけ、朝の儀式の準備が