文官の悪役令嬢は政敵と共同経営を始める

文官の悪役令嬢は政敵と共同経営を始める 第29話「巻末特別章」

窓から差し込む冬の光が、机の上に散らばった写本の角を冷たく照らしていた。木の床に響く足音、紙をめくる小さな音、誰かが息を詰める音──そうした生活の雑音が、共同経営所「和解所」の狭い間口にだけは届かないように閉じられている。イリス・セヴェランは、机に肘をついて古びた文書を覗き込んだ。指先に伝わる羊皮紙のざらりとした感触。中央に走る一行の文句が、午後の光に浮かんでいた。

窓から差し込む冬の光が、机の上に散らばった写本の角を冷たく照らしていた。木の床に響く足音、紙をめくる小さな音、誰かが息を詰める音──そうした生活の雑音が、共同経営所「和解所」の狭い間口にだけは届かないように閉じられている。イリス・セヴェランは、机に肘をついて古びた文書を覗き込んだ。指先に伝わる羊皮紙のざらりとした感触。中央に走る一行の文句が、午後の光に浮かんでいた。

「『婚姻之誓、可異議無之』──これが、あなたたちの主張の核心ね」

反対側に座るのは、薄茶色の手袋を外して掌の皺を見せた少年、マテオ。彼の頬は脂粉の剥がれたように青白く、指先は労働の跡で荒れている。彼の隣にいるのは、負債を有する商家の代表、ルーサー。硬い目をした男だ。向かい側で眉を顰めているのは、文官の代表格、白衣のエドガー・マレンだった。白衣の裾はきっちりと掬われ、彼の眼差しは書類の外に向かう余白を拒んでいる。

「イリス様。法の文言は明瞭です。合意のない婚姻解消は認められない。われわれ文官は、秩序を護るためにあるのです」エドガーの声は冷たく、机の上の印章箱を指差す。

イリスは息を吸った。胸の下で小さく打つ心臓。彼女の首元に下がる小さな紅い紐が、ささやかな反射で光を返す──六本編み上げられた糸は、彼女が子供の頃から持ち歩く“選紋の紅糸”だった。彼女は無意識にそれに触れる。節を押さえ、確かめるように。

「あなたたちが正しい側面もある」とイリスは静かに言った。「でも、この文書には矛盾がある。婚姻の誓が不変だとするなら、同文書の別段落にある『当事者合意に基づく改易』の条文は意味をなさない。どちらかが誤っているか、あるいは読み替えが必要です」

マテオの声が震えた。「合意……ここに、僕の名前がある。僕は押し付けられた。借金の担保だ。僕は、あの人の子を産むための紙切れじゃないと――」

ルーサーが深く息を吐く。額の青筋が、彼の苦境を物語っている。だがエドガーが鼻先で笑った。

「当事者の合意? あなたはどうやって合意を取り付けるというのです、イリス・セヴェラン。文書の原則は、当座の秩序を保つために存在する。『読み替え』などと称して恣意的に改変を許せば、秩序は瓦解する」

「当事者をここに呼んで、意思表示をさせればよいだけだ」ロザンナが机の端から前へ身を乗り出す。市場出身の実務者はいつだって実践を好む。彼女はマテオの手を取り、柔らかく握った。「私たちは三者、ここで意思を示します。もし彼らが合意するならば、読み替えが成立するはずだ」

エドガーは鼻を鳴らした。だがそのとき、外の戸が勢いよく開いた。背の高い男が一歩踏み込む。シオン・アルメイン──表舞台でイリスと何度もぶつかった青年貴族だ。彼はいつもの冷ややかな笑みを浮かべていたが、その瞳は真剣だった。

「文官たちも、今日ここに来るべきだろう。公開の場で、書面だけでなく声を以て判断する」シオンは白手袋を外して机に置く。手の甲に浅い傷がある。彼はイリスの顔を一瞥し、軽く会釈した。「もしイリスが本当に『当事者全員の合意』を求めるのなら、ここにいる者全てが署名すべきだ。そうすれば――」

彼の言葉を遮るように、エドガーが冷笑した。「それが通用するのは理想論だ。誰が彼ら全員をここに連れてこられる? 権力者は遠く、代わりの代理人を送る。合意は偽造される恐れがある」

イリスは目を閉じる。羊皮紙に指を走らせると、文字が彼女の掌に冷たく印されるような錯覚がする。彼女の能力、古文書の項目を「当事者全員の同意」で読み替える力は、いつも彼女を困らせた。万能ではない。もうひとつの掟が、暗く重く彼女にのしかかる──「一方的に誰かの運命を決めると、自分の選択肢を一つ失う」。この代償は、身体に起こるわけではない。だがそれは確実に、未来の一端を削り取る。

「マテオ、あなたはどうする?」イリスが穏やかに尋ねる。マテオの唇が震え、瞳に決意と恐怖が混じった。

「僕は……ここにいる。ルーサーさん、あなたは? 僕の解放に同意しますか?」

ルーサーの目が硬くなり、短い沈黙のあとに彼は紙袋から書面を取り出し、震える手でサインをした。ロザンナが続き、マテオも自分の名をもじるように書いた。書類は彼らの手元でそろって重ねられ、机の上に置かれる。署名済みの紙片は、小さな山となって光を跳ね返した。

「では――」イリスは息を吐き、静かに古文書をひらく。「全員の合意がここにある。読み替えを開始する」

だがエドガーは机を叩いた。「これは不正だ。合意は詐術だ。われわれはこれを認めない」

その声は、貼られていた規則の重みを思い起こさせる。部屋の空気が凍る。合意の署名があっても、文官が断じることで実効は奪われる。イリスの心臓が小刻みに鳴った。廃止振りのように、彼女は自分の周囲に立つ者たちの表情を見た。ロザンナは堅い顎で彼女を見据え、シオンはわずかに頬を引き締めている。マテオは震える手を握りしめたまま、目を逸らさない。

「ここで、あなたに選択を迫られる」エドガーが言った。「合意を無視して無効化することは出来る。しかし、その場合は、イリス・セヴェラン、あなた個人が古文書を恣に書き換えることになる。それは……」

彼は言葉を濁した。イリスは自分でもわかっていた。彼女が一方的に結果を押し付ければ、代償が発生する。どのように代償が現れるかは、これまでの経験から幾ばくか知っている。ただ説明できるものではなく、失われる「選択」がどれかは、使うたびに違った。だが今回は、彼女はそれを承知で押し切るしかないようにも思えた。

シオンが前に出る。彼の声は低く、言葉を選びながら。

「イリス、もし君が一方的に読み替えるなら、その代償を私が肩代わりしよう。共同経営の立場として──我々は共にこれを選んだんだ、違うか?」

その提案は、部屋の中に小さな波紋を広げた。ロザンナの目が疑いの色を帯びる。ルーサーは眉を上げる。エドガーは短く笑ったが、面白くない笑いだ。

「代償の分配は理論上可能だ」イリスは言った。「だが、規則は明確だ。『自己が一方的な改変を行った場合、その主体たる当人が選択を一つ失う』。シオンが肩代わりするには、彼自身が自らの選択を捨てると宣言して署名しなければならない。加えて、当事者全員の同意が必要だ。君はそれをする覚悟があるか?」

シオンはイリスの眼を見据え、指先で自分の左手の薬指に触れた。そこには、かつての盟約を示す小さな印章があった。彼はそれを見下ろし、ゆっくりと首を振る。

「私の選択を捨てることは、我が身を縛ることだ。だが君のような者が、制度の犠牲になるのを見過ごすほど無情ではない。私は――同意する。ただし、もう一つ条件がある」

「条件?」

「君は、その代償を受ける相手を私以外から選ぶことができる。つまり我々は選択の配分を話し合い、誰がどれだけ代償を引き受けるかを決める。共同経営とは、そういうものだろう?」

ロザンナの顔に小さな笑みが戻る。ルーサーは苦い表情を浮かべながらも頷いた。マテオは、まだ完全には理解していないだろうが、安堵の色を覗かせた。エドガーは、白い手袋の縫い目を指で弾く。

「法の改変を、共同で引き受ける」イリスは囁く