庭園の悪役令嬢は追放先で国を救わない 第24話「第22章」
床の大理石はまだ夜の余熱を溜めていて、足が触れるたびに冷たさが返ってきた。やわらかい光が欄干の影を伸ばし、外套の裾をほんの少しだけ震わせる。イザベルは両手を膝に乗せ、指先でひとつの痕を確かめるように自分の手首を撫でた。そこには、薄く窪んだ三本の刻印がある。触れると少しひんやりして、小さな疼きが走る。誰も見ていないはずの場所で、彼女の呼吸が深くなる。
床の大理石はまだ夜の余熱を溜めていて、足が触れるたびに冷たさが返ってきた。やわらかい光が欄干の影を伸ばし、外套の裾をほんの少しだけ震わせる。イザベルは両手を膝に乗せ、指先でひとつの痕を確かめるように自分の手首を撫でた。そこには、薄く窪んだ三本の刻印がある。触れると少しひんやりして、小さな疼きが走る。誰も見ていないはずの場所で、彼女の呼吸が深くなる。
「あなたがするしかない」と、主席判事の声が響いた。広間の空気は紙のように薄く張り詰めている。壇上に立つ男は、式典用の黒金の杖を揺らしながら、まるで舞台の演出家のようにゆっくりと微笑んだ。彼の前には、薄布に縛られた人影。顎を上げたその顔を見て、イザベルの心臓が一度強く跳ねた。
ルカンだった。幼い頃に庭で花を分けてくれた、黒い目をしたルカン。彼は口元を真一文字にして、顔色を失っている。唇についた乾いた泥の匂いが、幾ばくかの・――月灯りとともに広間に混ざった。
「この者の命は、あなたの筆先一つで左右される。条文の一行を読み替えれば、王家の直轄地に課せられた領民の選別を撤回できる。領主の地位を剥奪すれば、彼らの暴政は止まる。君は本来、そうしなければならない。あなたが拒むなら、彼はここで断罪されるだろう」
判事は文書を掲げた。古びた羊皮紙が、中央の炎に照らされて銀色に反射する。隅には王家の烙印。そこに筆を触れ、ただひとりの当事者の意思で「読み替え」を押し付ける——それが求められていた。
「ただし」と判事は続けた。口元の笑いが乾いている。「一方的な読み替えは特殊だ。既存の合意や当事者全員の同意を無視して行えば、――その者は代償を払うことになる。イザベル・フォン・ドゥレア、あなたはそれを二度行っている。刻印はもう三つある。ここでまた一つ刻めば、あなたの選択肢は一つ、永遠に消える」
言葉は単純だ。だがイザベルの掌にある刻印は物語をしていた。左手首の窪みは、使うたびに確かに深まっていった。彼女は一度の読み替えで、幼い自分の「帰る」道を閉ざした。誰かの運命を一方的に決めた夜、彼女は自分の家へ戻ることができない選択肢を失っていた。今度刻まれるものは何だろう。母に会う権利か、好きな仕事を選ぶ自由か。想像すると胸の奥の何かが固くなる。
「戻れ」と、彼女の隣にいた侍女が囁いた。だがイザベルの視線は壇上のルカンに向けられた。彼の目がこちらを探していた。そこにあるのは、懇願でも命令でもない、ただ見据える視線だけ。
「私は、あなたのために国を救いません」とイザベルは静かに言った。言葉は広間に棘を落とした。どよめきが一瞬波打ち、判事の眉がぴくりと動く。
「ではどうするつもりだ」と判事は呆れたように笑った。「選ぶのはあなただ。法を曲げて一人を救うか、従って多数を守るか」
彼女は答えなかった。答えは、彼女の背後で合図を待つ人間たちへと向けられていた。その合図はほんの小さな瞬きだった。視線が交わるだけ。だが、市井の生活で培った観察眼は、すべてを伝える。
地下では、もう動いていた。庭園の根元にある古い散水溝——子どものころに彼女が駆け回ったあの暗い通り道——を秘密裏に駆け抜ける数人の影。冷たい石壁に指先を擦りながら、彼らは息を切らして進む。リーダーはセリーヌ、青い軍布を纏った若い女だ。彼女は計画を立てるとすぐに他人に口を挟ませない。
「二手に分かれるわ。ラファエルと私は正面から。ミーナ、あなたは側溝のふたを外して内側から入る。ガルシアは監視塔の見張りを引きつけて。誰も勝手に動くな。各自の判断で最善を選べ」
「各自の判断で」と、ラファエルが反復する。彼はかつて軍人だった痕を残す短い髭を揺らして、笑いすらない真剣な顔でうなずいた。「いい。自分で考える者だけが生き残る」
石造りの回廊は冷たく、足を取る湿り気と鼠の匂いが混じり合った。手で触れると苔が指につく。ミーナは暗視の術を使ってはいるが、それでも光の消えた空間は心を攫うようだ。だが一つ一つの動作は確実で、鍵穴に差し込まれる薄い鉄具の音が、小さいながらも確かな鼓動を作る。
向かい合った二人の護衛が煙草の灰を落とす音がした。ガルシアの囁きが耳に届く。「右手の門を二分で押さえる。俺が声を上げるのを待て」
守りは重かった。だが彼らの動きは今までとは違っていた。誰もが自分の判断で動き、誰もが互いの行動を信じていた。セリーヌは心の中で小さく呟く。これが彼女たちの選択だ、と。
扉が開いた。地下から伸びた狭い階段を駆け上がると、彼らの前に現れたのは庭園の地下奥に設えられた拘束室だ。鉄の扉の向こうに、粗末な杭に固定されたロープが見える。ルカンがそこにいた。薄い布は彼の顎を擦り、目には血の痕。だが彼は生きていた。
ミーナが歯を食いしばって鍵を外す。最後の一回転で金属が外れ、扉は静かに開いた。冷たい空気が彼らを包む。ルカンの目がゆっくりと開いて、薄い声が漏れた。
「イザベル……?」
彼女は両手を伸ばし、指先でその輪を外す。ロープの擦れる皮膚の感触。ルカンが深いため息を漏らす。手のひらに伝わる彼の鼓動は、思ったよりも細く温かかった。セリーヌは周囲を警戒しながら、そっと二人の距離を作る。
「静かに」とラファエルが言った。「ここからが危険だ。通報の鐘は、王座の間にも繋がっている。俺たちは時間を稼ぐ」
ミーナはルカンの肩に肩を添えながら答える。「彼を連れて上に出る。門は上で二手に分かれて抜ける。だが一つ、確認しておきたいことがある」
彼女がルカンの胸元を探ると、金の小箱が滑り出た。付属の紐には王家の烙印が刻印された小さな印章がぶら下がっている。箱の蓋には薄い羊皮が詰まっており、そこに押されたのは——代理同意の印。王室の代官が用いる「代理署名」の証だった。
「これが……」ガルシアの声が渦を巻いた。「これを王家の書に押せば、拘束された者の代理同意として扱える。つまり、形式上は当事者全員の同意――と見なされる」
ミーナの掌が小さく震える。「嘘だろ……そんな裏口の条文があるのか?」
「ある」とセリーヌは冷たく言った。「古い法には、代表権を行使するための器具が定められている。長く使われていなかった。だが今、それを使えば——イザベルがここで何をしても、彼らは『全員の合意』を証明できる。判事がそれを利用したら、あなたが一方的に読み替えたかどうかが問題にならない」
その言葉が、地下室の湿った空気をさらに冷たくする。イザベルはルカンの肩に顔を埋め、小さな泣き声を上げそうになるのを堪えた。彼女の視線は、掌の刻印に戻る。三つ、四つ。刻印は待っている。
「代理の印章を回収して、書庫にある原本を抑えれば……」ラファエルが提案する。「署名できる位置にいく前に、それを物理的に奪えばいい」
「そうすれば、彼らは現場で時間稼ぎをできなくなる」とセリーヌが続ける。「だがそこで見つかれば、全員が捕まる。選択はあなた次第だ、イザベル。君はまた選ぶか、それとも私たちに任せるか」
イザベルはルカンを抱き寄せ、彼の髪に指を通した。彼の匂い、血と草の混じる匂い。心が軋むように痛い。代理印章を見下ろすと、冷たい金属に月光が反射している。彼女は幼い自分の庭を思