染色の悪役令嬢は政略結婚の条件を変える 第10話「第9章」
廊下は石の冷気を含んでいた。壁沿いの小さな窓から差し込む月光が、湿った床にじわりと銀を落とす。リアナは足を止めた。角を曲がったところ、布の擦れる音が静かにする。匂いが鼻をついた──鉄と草の混じった、濃い藍の匂い。どこかで媒染に使う鉄釘が火を噛んだのだろう。
廊下は石の冷気を含んでいた。壁沿いの小さな窓から差し込む月光が、湿った床にじわりと銀を落とす。リアナは足を止めた。角を曲がったところ、布の擦れる音が静かにする。匂いが鼻をついた──鉄と草の混じった、濃い藍の匂い。どこかで媒染に使う鉄釘が火を噛んだのだろう。
片隅に、色とりどりの布切れが山になっていた。朱、茜、深い藍、そしてひび割れた黄金のような淡い黄。どれも端が雑に切られ、泥のような斑点が染み込んでいる。手に取るとまだ湿っており、指先が淡く染まった。布の山の先に人影があった。男が膝を折り、低い桶に布を浸しては軽く絞っている。指先は藍で真っ青だった。
「カルヴァン」リアナは名を呼んだ。声は低く、石に吸われた。
男は手を止めた。顔は三十の半ばだろう。頬には日に焼けた線が走り、目は眠そうだが警戒に満ちていた。彼の衣服も染料にまみれていて、胸にかすかな紋章──中立評議院を示す輪の印が縫い付けられているのが見えた。
「陛下の私設ではない、リアナ・フォン・ベルグ。夜這いでもしたつもりか」カルヴァンの声はうんざりしたように聞こえたが、手は止めなかった。布を絞れば藍の雫が桶の縁に小さな輪を作る。
「ここに何の布を──」リアナは尋ねた。彼の行為はただの清掃ではない。最近の一連の阻止工作、訴状の紛失、期日のすり替え、婚約者の突如の査問──どれも誰かが文書の運びを阻み、結婚の条件を変えてきた。カルヴァンの名が噂に上っていた。表向きは中立を誇る評議院の一員。だが彼の手元に残るのは、中立では語れない痕跡ばかりだ。
カルヴァンは肩をすくめた。「色を落とす。目に見えるものは消さなきゃ、次に何をするか分からないだろう」
「誰のためにそこまで?」リアナは一歩近づいた。石の冷たさが足元から伝わり、布の匂いがもっと濃くなる。彼女の掌に残った藍は、ふとした瞬間に自分の手を証明するもののように思えた。
「ミラのためだ」カルヴァンはやっと顔を上げた。「侯爵家の妹の……あの子が、あの紙に縛られて行くのを見過ごせなかった」
ミラ。リアナの頭の中で、それまで断片的に聞いていた名前が繋がる。侯爵家の結婚条項に、ある条件が書かれていた。婚姻が政略に従う場合、婚姻の相手は家の血統と錬度を証明する色の布で示される――そんな噂話を、誰かが囁いていた。だがそれは単なる噂ではなく、実際に運用されようとしていた。布の色が、人生を分ける印になる──誰が愛を選べるだろう。
「あなたは阻止工作をした。書類を隠し、会期を遅らせ、印章をすり替えた。何人もの選択を奪った」リアナの声は静かだったが、刃物のように切り込んだ。「それは──」
「奪った?」カルヴァンは布を一つ取り上げ、指先に染みた色を眺める。「私は選択を与えたつもりだ。あの条項が通れば、選択など初めからない。色が決まったら、誰でも約束の相手を拒むことは許されない。契約が、色で人を縛る。人形の首に糸を結ぶようなものさ」
リアナは言葉が喉に詰まるのを感じた。彼の言い分には嘘がない。だが手段は手段だ。自分が目指すのは、制度そのものの書き換えだ。誰もが自分の意思で読むことができる場を作ること。だがそれは一朝一夕に成るものではない。今、目の前に差し迫った危機がある。侯爵家の妹は、来週にも婚姻の儀に送られる──誰かが速やかに条項を読み替えなければ、彼女は選択の余地なく縛られる。
カルヴァンの目が揺らいだ。「評議院は表向き中立を保つ。だが長老たちは……彼らにとって中立は利権だ。色の管理は利益を生む。染める者たち、裁断する者たち、権利を売る者たち。もし我々が動かなければ、あの子は色に押し込められる。私は手を汚した。だがそれが──」
「被害者を作る前に止めたいだけだ、と?」リアナは息を詰めた。カルヴァンの顔に悲しみが浮かんだ。彼は続けた。
「君のやり方を本で読んだ。古い式文の矛盾を、当事者の同意で読み替える。私は少しでも時間を作ればそうしてくれると思ったが、事は複雑だった。ミラにその選択を迫ると、あの子は怖がって同意を拒んだ。――同意のための同意が必要だった。だが君がいなければ、誰がその同意を集める?評議院は黙認する。だから私は文書を動かした。結果的に他の選択肢を奪うことになったのかもしれない。だが、あれが最善かは分からない」
リアナの手が固くなる。彼が言う「同意のための同意」という奇妙な論理。それはまさにリアナの力の弱点を突いている。彼女は古い制度文書の矛盾を見つけ、当事者全員の同意で読み替えることができる。だが「全員」の同意が得られないとき、選択を救うために自分一人で結末を変える道が出てくる。ルールは存在しており、その禁止ははっきりしていた。規程はこう言う――当事者の同意無き読み替えは、読み替えた者が自身の一つの選択肢を永久に失う。実務書の一節、古い罰則だ。だが現実に直面した今、その代償はどういうものか、リアナはまだ知らなかった。
「君は、私に頼むつもりか」カルヴァンがぽつりと言った。「この場で、あの条項を読み替えてくれ。ミラを拘束する色の効力を無効にしてくれ。……だが、私は同意を集められない。あの子を守りたいなら君が一人でやってくれ」
リアナの胸の奥が冷たくなる。彼女は選ぶためにここにいる。けれどその選択は、誰かの人生を押し付ける形で行われるべきではない。カルヴァンは懇願する目で彼女を見た。桶の藍が月光を受け、濃淡の波紋を作る。
「その代価を知っているのか」リアナは問うた。
「噂は聞いた。だが実際に失うものが何かは誰も正確には知らない。古い言葉にあるだけだ。君がそれを払えば、ミラは自由になるかもしれない」
リアナは息をはき、ゆっくりと歩み寄った。布山の一つを取って、指先で裂いた端を撫でる。染料の冷たさが皮膚に残る。彼女は瞼を閉じ、頭の中で古文書の文字を並べた。条項の読み替えは儀式めいたものだ。かつて裁きの場で行われた解釈の転換は、当事者の合意を以て法を変える――だが、その合意がない場合に備えた古い罰則もまた文字として残る。罰則はいつも、力を持つ者が最終的に決断を下せるように用意された安全弁だ。
「やる」彼女は小さく言った。声は自分でも驚くほど冷静だった。「私は一人で、読み替える。だが、その代償は受け取る」
リアナは手に持っていた小さな箱を開けた。中には、幾つかの細いリボンが丁寧に畳まれていた。色は淡い藍から深い紫まで。彼女はそのうちの一本を手首に巻きつけていた。それは彼女の選択肢の象徴だった。出発前に彼女は仲間たちと交わした約束として、未来の可能性を示す小さな糸を自らに結んでいたのだ。読み替えを一方的に行えば、古い規則はその糸を一つ、切り取ってしまうという。――現実にどう感じるのかを確かめるため、彼女は意図的にその条件を満たすつもりだった。
カルヴァンが目を見開く。「君はその……紐を?」
リアナは頷き、淡い藍のリボンを右手首の上で固く結んだ。冷たい金属の香りがした。彼女は深く息を吸い込み、旧い条文の一行一行を口にした。言葉はぎこちなく、古い訛りを含んでいたが、読むうちに空気がざわりと震え、文字が石の影に溶けるように廊下の空気が変わった。
「当事者の合意を欠く読み替え