毒見の悪役令嬢は後宮の友情を守る

毒見の悪役令嬢は後宮の友情を守る 第9話「第8章」

鋼の皿がこすれる音。低い軋みは、夜の後宮の隅々まで響いた。ミレイは細い指先で天井近くの梁にしがみつき、足先の革靴はほの暗い風に揺れる布をつかんでいた。彼女の胸の鼓動は、耳の奥で鼓を叩くように速かった。下の通路には奉仕女たちの囁きと、香料の混じった熱気が漂う。台所からは新たな皿を並べる金属の調子が断続的に聞こえた。

鋼の皿がこすれる音。低い軋みは、夜の後宮の隅々まで響いた。ミレイは細い指先で天井近くの梁にしがみつき、足先の革靴はほの暗い風に揺れる布をつかんでいた。彼女の胸の鼓動は、耳の奥で鼓を叩くように速かった。下の通路には奉仕女たちの囁きと、香料の混じった熱気が漂う。台所からは新たな皿を並べる金属の調子が断続的に聞こえた。

「来て、手を――」低い声が彼女の耳に届き、次いで柵を越えるように体が動いた。カリンが背後で息をひそめる。二人はいま、宴席に出されるはずの小さな杯の一つを取り戻そうとしていた。先刻、誰かが毒の疑いで杯をすり替えたという噂が廊下を駆け抜け、あの杯は不純物の証拠として密かに隠された。証拠を消すことは出来ない。だが、流言は拡大し、誰かを断罪するために使われる。

「見つけた」ミレイの指先が、皿の端に届いた。銀の縁はひんやりと冷たい。カリンが後ろ手で守る。二人の行為は早かった。もし失敗すれば、毒見役の私――アイラ――に矛先が向く。彼女は重く、広い袖の裾を掴んでいた。心臓が喉に上ってくる。

そのとき、下の廊が騒がしくなった。誰かが鋭く叫び、足音が駆け寄る。ミレイが皿を抱きかかえた瞬間、床の一枚がわずかに軋み、彼女は体勢を崩した。皿は片隅でカランと鳴り、銀の縁が微かに欠ける。音は小さかったが、静寂を切るには十分だった。

「誰だ!」札を打つ声。松明の光が跳ね、影が壁に大きく伸びる。監視の近衛が振り向き、二人を見つけた。彼らの顔に安堵はない。息を飲み込み、カリンは腹を打つように前に出た。

「奉仕が落として――呼び止めてください、殿下!」彼の声は震えを抑えていた。だが声は届かない。廊下の向こうから、宴席の広間での混乱が伝わってきた。主賓の侯爵夫人がひどく顔色を崩し、横の若公子が抑えきれずに叫んでいるという。杯に毒があると断定する声が、すでに上がっていた。

そのとき、大広間の扉が開いた。顔を真っ赤にした侍従が走り、侯爵夫人は座席の傍らで汗をぬぐっている。広間の空気は一秒ごとに粘性を増していた。目を泳がせる貴族たち、金糸の刺繍に光る指輪、薬を調合していた薬師の冷たい視線――すべてが、一人の役割へ向かって収束する。

「毒見のアイラを!」誰かが叫んだ。辺りは一斉に音を上げ、視線が私の方へ向いた。胸の奥で何かが締めつけられる。私はその場に立っている。長い黒髪は後ろで乱れ、手のひらにはまだ皿の端の冷たさが残っているように感じた。だが私には証言するための確かなものがない。私の力は一つの条件に縛られている。古い文書を読み替えることはできる――ただし、当事者全員の同意があってこそ成立するのだ。

大広間の役人が近づいてきた。彼は私の名を呼び、問いかける。言葉の端に、慈悲はない。

「証拠は?」ソランが、距離を置いたところから私に向けて口を動かした。彼は侍医で、冷静な表情の中に怒りを抑えている。だがミレイはもう戻らない。目の前の群衆は早急に結論を出したがっていた。

私は手を上げた。言葉が喉できしむ。

「杯の検分を求めます。私の立場は――」しかし、誰もそれを信用しない。奉仕女が見たもの、侍女が囁いたもの、侯爵夫人の険しい顔、すべてが私は毒見役であるという筋書きに沿って回るだけだった。制度は、目撃と証言の森を作り、私が最後に立つべき場所を決めてしまう。

「全員の同意を取ってください」ソランが別の方向で声を上げる。彼は私の持つ能力を知っている。だが今、同意を得るという条件が不可能に近い。誰が、被害を訴える侯爵夫人と、疑いを持つ廷臣たちと、私を信じない人々を、同じテーブルにつかせるだろう。誰が同意して、誰が背くか。それを決めるのは、制度が好む筋書きだ。

広間の片隅で、ミレイが現れた。彼女の胸は荒く、服の裾はほのかな泥で汚れている。私を見つめる目は真っ直ぐだった。皿を抱えた腕には、銀の杯の欠片が挟まっていた。彼女は何かを伝えようとしていたが、言葉は途切れた。代わりに侯爵夫人が声をあげた。

「毒見の役は一つ。杯の欠けた者が何を語ろうと、秩序は守られねばならぬ」

その一言で、雰囲気は決まった。即座の審判を求める声が強まる。刃のように冷えた沈黙が、私の背筋を走った。

私は――行動した。

普通なら私は交渉で文書を読み替え、相手が理解する言葉に置き換えて同意を得る。だがここには「同意を得る」という余地がなかった。誰もが自分の立場だけを盾にしていた。私の友人たちが独自に動き、皿を取り戻したという事実が、むしろ混乱を煽っていた。時間はなかった。侯爵夫人の血色は戻らず、廷臣たちは処罰を望んでいる。もし私が何もしなければ、ミレイがそれでも責めを負うだろう。彼女は、私の友人だ。

私は禁を犯した。能力の規則は口に出してしまえば詭弁だが、行為は現実を変える。私は古い制度文書の一節を、声に出して読み替えた。だが、今回は当事者の同意はない。私の口は違う言葉を紡いだ。

「文書二十二、第三項に基づき、当該杯の再検分は、'疑いの成立には連続的な管理の証明を要する'――とみなす」

その瞬間、大広間を支配していた空気が押し出されたように動いた。役人の眉が動き、侯爵夫人の瞳が瞬いた。誰もが、文書の言葉を探した。私が口にした条文は確かに存在する。しかし、条文はこれまで「同意」によって読み替えられてきた。私はそれを一方的に言い換え、条件を課した。形式上は、条文の可能性の一つに過ぎない。だが制度の歯車は軋み、ただちに審理の手順は遅れる。近衛が杯を取り上げ、封印のために箱へ入れた。時間が生まれた。

広間の中の何人かは歓声にも似た安堵を漏らした。ミレイは私を抱きしめようとしたが、私はそれを受け流した。胸の中に、冷たい穴が開いたのを感じた。何かが、私の内側で抜け落ちた。言葉にした代償が、すぐに形を取り始める。

最初は違和感だった。右手の指先がしびれ、遠い子供時代の匂いがふっと薄れた。私はふいに自分がかつて夢見た三つの未来を思い出そうとしたが、並んでいたはずの一つが、スリップしていた。消えたのは、「故郷へ帰る」という選択肢だった。理由はわからない。私はいつも心の奥に、もしすべてが許されるなら家に戻って静かに暮らすという可能性を持っていた。それが、今、指の隙間からこぼれ落ちた砂のように消えた。

「アイラ」ソランの声が冷たく響いた。彼は私の顔を覗き込み、何かを見抜いたようだった。私が何をしたかは、広間の誰よりも早く知ったに違いない。彼の瞳の中に、失望と理解が混じる。

「無断で読み替えたのか」

「――うん」私は短く答えた。言葉は乾いていた。ミレイが私の袖を掴む。その温かさで私は現実に戻ったが、内側の穴は埋まらなかった。

「君はまた――何かを失ったんだね」ミレイが言った。彼女の声は震えていたが、憎しみはない。

だが広間の外、月は雲に覆われていた。私はすぐに追及を受けるだろう。廷臣たちは私の「不正」な行為を証拠に、次の断罪劇を用意する。制度は一つの穴を見つければそこへ鋭く爪を入れる。それは、いつだってそうだった。

その夜、私は中庭に出た。石畳はまだ熱を帯び、夜露は低い草の葉を濡らしていた。空は深い漆黒で、数えるほどの星しか出ていない。ロウソ