毒見の悪役令嬢は後宮の友情を守る 第21話「第19章」
杯は床に滑り、琥珀色の液が畳の織り目にじゅうっと染み込んでいった。誰かの息が一斉に止まり、そこにいた音がすべて吸い込まれるように静まる。アイラは、転がった杯のすぐそばにひざまずいた。包帯に覆われた右手の指先から、まだ熱がじんわり伝わってくる。手の甲に貼られた白い包帯の下で、小さな銀の輪が欠けていた。欠けた輪の破片は指先の皮膚に食い込み、痛みが鋭く走った。
杯は床に滑り、琥珀色の液が畳の織り目にじゅうっと染み込んでいった。誰かの息が一斉に止まり、そこにいた音がすべて吸い込まれるように静まる。アイラは、転がった杯のすぐそばにひざまずいた。包帯に覆われた右手の指先から、まだ熱がじんわり伝わってくる。手の甲に貼られた白い包帯の下で、小さな銀の輪が欠けていた。欠けた輪の破片は指先の皮膚に食い込み、痛みが鋭く走った。
「誰だ、こんなことを──!」
レナの声が震える。顔は蒼白で、唇は紫がかっていた。彼女の肩は小刻みに震え、両手を胸の前で固く組みしめている。周囲の妹妾たちが互いに目を合わせ、疑念の矢がゆっくりと滲みだす。運動は、犯行の疑いで即座に中断され、屋内は監視役の足音と低いうわさで満たされた。
「落ち着いて。ここは──」シオンが言葉を探す。だがその声にも昔の確信はなかった。アイラの一挙手一投足を見つめる視線に、仲間たちの不安が重なっている。
彼女はゆっくりと左手で包帯を押さえ、匂いを確かめた。焦げたような匂いと、薬草のような、わずかに甘い匂い。――本物の毒の匂いとは違った。欺瞞の指紋が匂いの奥に残っている。
「アイラ、説明して」マリアの言葉は冷たい。彼女はアイラをかつての友として信じたい気持ちと、制度に従うことを疑えない外套を同時に纏っていた。
アイラは視線を回し、倒れたレナの頬にそっと触れた。皮膚は熱いが呼吸はある。脈は飛ぶが、確かに生きている。彼女は仲間たちが察するより先に、自分がしたことの代償を感じていた。包帯の下で、右手の指先にかすかな痺れがある。見えない何かが、彼女の選択を一つ奪っていったような感覚。
「私が処理した」短く、しかし硬い声で言った。返る質問に先んじて、言葉を切った。「でも、一方的に決めた。……そう、私は決めた。すぐに保護措置を適用させた。即時断罪とする条項を、緊急保護に読み替えた」
その言葉が空気に落ちると、誰かが「また」と吐き捨てた。噂が、疑いが、怒りが押し寄せる。アイラは自分の胸にある細い輪のことを思い出す。互いの合意を以て文書を読み替えるとき、合意した者全員の署名が必要だ。彼女の能力は本来、ただの交渉術だ。だが緊急時には限定的な強制力を行使できる。そうして彼女は、判らぬ犯行の疑いから仲間を守る「暫定的な法的解釈」を押し通したのだ。
「限定的な読み替えは、通常は全員の署名――」
「そんなものを待っていられる状況じゃなかった。」アイラの声は静かだが揺れていた。「レナの脈が──あの場で誰かを裁くには根拠が曖昧すぎた。死ぬかもしれない。私は選んだ。命を優先する、と」
彼女の言葉に沈黙が広がる。命を救うか、制度の正当性を守るか。どちらを選ぶかは、彼女が常に抱えてきた問いだった。今、その答えを仲間たちに見せた。だが、答えには代償が伴った。
「代償って……また何か壊したの?」シオンの問いは、恐怖と同時に憐れみの色を含んでいた。
アイラは静かに右の手首に目をやった。そこには小さな印章――アイラが子供の頃、家から持たされた「選択印」の一つがあった。家族が望むところに進むことを拒むための、ささやかな反抗の証。彼女はそれを指にはめ、これまで幾度かの解釈のときに守りとして使ってきた。だが今、その印章の表面がひび割れて、光を失っていた。粉になったかけらが白い包帯の隙間からこぼれ落ち、畳の織り目に吸い込まれていく。
「一つ、選択を失った」彼女は声を絞りだした。「この印章は、私が自分の進路を一つだけ選ばない、という権利を記録するものだった。私が一方的に誰かの運命を決めることで、印章は割れた。もうひとつの個人的選擇肢を持てなくなった」
言葉を聞いた瞬間、誰かの顔から色が失せた。具体的な何かが奪われたという事実は、抽象的な不満よりも人々を容易に動揺させる。選択を奪う制度に対抗しようとしていたはずの彼女が、今や自らの選択を代償にしてしまった。その皮肉が、場の温度をさらに下げた。
「それでも……命を優先したのは、あなたらしい」レナはベッドの上でかすかに笑った。声はか細い。伊達に生きたくはない、という強さがそこに残っている。
しかし、非難の種は撒かれていた。廊下の端で、宮務卿の使者が立っているのが見えた。官庁に通報が上がる前に、現場を封鎖して状況を説明しろという命令が来るだろう。制度は、混乱の中で最も自分を守る。アイラがした「暫定的な読み替え」は、検証されれば否定される可能性が高かった。否定されれば救った命を再び危機に晒す。
「裏切り者がいるという気配がある」マリアが、声を落として言った。「偽造の匂いがする。毒じゃない、と判るのはいいけれど、わざとそう見せかけた者がいる」
「じゃあ——」シオンが手を上げるように空に掲げた。「誰かが犯行を仕組んだ。それを突き止めないと、私たちはいつまでも疑われ続ける」
アイラは倒れた杯に視線を戻した。杯の縁には、かすかな痕跡が残っている。誰かがわざと注いだのなら、きっと証拠があるはずだ。彼女は床に落ちた欠片を拾い上げ、爪の間でそれをこすった。小さな紙の切れ端が、欠片の裏に貼り付いていた。透けて見える文字は小さく、急速に書かれた筆跡。そこには、薄い黒のインクでこう書かれていた。
「実験用・検証外。常務局扱い」
その四字が、重く響いた。常務局──宮廷制度の中でも特に文書の運用と解釈を司る部署名。民間の仕業ではない。しかも「検証外」とは、規程の縁に違反していることを示す。誰かが、規則を悪用して演出を作り、運動を潰すために仕組んだのだ。
「これは……誰かが常務局のやり方を知っている者の仕業だ」アイラは声を潜めた。「外部の者だけじゃない。宮中にいる──誰かが、私たちを嵌めようとしている」
仲間たちの顔が一斉に硬くなる。信頼と裏切りの境が、そこまで近づいていた。使者の足音が近づく。外では帳面を取りに行く侍従の影が走る。時間がない。
アイラは右手をぎゅっと握った。包帯の下で、割れた選択印の欠片が冷たく指の腹に触れる。彼女は自分が払った代償をまだ正当化できるかどうかを問う前に、次に動くべきことを知っていた。
「私は、この件を調べに行く」彼女は言った。言葉に地があった。「常務局の格納文書に、この『検証外』の痕跡があるか確かめる。表向きは公的な手続きを待つべきかもしれない。だが、誰かが宮中の文書を改竄できるなら、公表を待っているだけでは次の被害が出る。私が行く。夜に――閲覧室の鍵は、私ならいつでも借りられる」
「一人で行くのは危険だ」レナが弱々しく言う。目の端に涙が光っている。
「危険でも、やらないよりはましだ」アイラは小さく笑った。笑みは包帯と疲労に裏打ちされたものだ。「私には選択が一つ減った。だが、まだできることは残っている。仲間の前で一度失った信頼を取り戻すのは私の仕事だ――私が押しつけられた役を、私は守るために使う」
彼女は欠けた紙切れを袖に滑り込ませた。そこに書かれた「常務局」の文字が、胸の中で重く振動する。仲間たちの疑念、使者の足音、そして割れた印章。すべてが絡み合い、次の選択を迫ってくる。
扉の外で、低い立て付け音。封鎖を告げる声が聞こえる前に、アイラは立ち上がり、仲間たち